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2011年12月30日

「東北と縄文~2011年が伝えたかった事」

今年も後残すところ2日、大変な年でしたが2011年は多くの人の記憶に、そして未来の世界の歴史書にも永遠に刻まれる1年になると思います。そしてその中心に日本があり、東北があることは間違いないでしょう。あまりに多くの事があった今年、金正日の死去でさえ霞むほどの国際的にも多くの災害、政変、経済不況に見舞われた年でした。
縄文ブログでは年初に日本人の可能性というシリーズで始まりました。また、今年1年通じて改めて縄文時代からの日本列島史とその周辺を取り巻く中国、朝鮮の歴史を見ていきその可能性の基盤を探り続けてきました。現在、日本の特性である天皇制に追求のメスを入れるべく会員の方々の追求は続いています。縄文ブログの来年の照準はいよいよ日本人って何?これから我々はどう生きていくべきか、生かされていくかという民族論、未来論に移行していきたいと思います。
今回年末年始シリーズとして縄文―日本―天皇をテーマに3本の記事を選びました。
初回は縄文時代の中心地であり、今年の震災の当事者となった東北を扱ってみたいと思います。東北についてはこの縄文ブログでもこれまでいくつかの記事で扱ってきました。しかし、正面から東北って何?東北の持つ可能性や次代の日本における東北の位置づけを追求した論考はありませんでした。今回短期の1回シリーズになりますが、改めて東北を日本の縄文文化の原点、日本人の精神的本拠地ととらえその特性、可能性に言及していきたいと思います。
GM13.jpg
縄文人の原風景に欠かせないブナ

リンクよりお借りしました。
記事に入る前に今年の東北震災の地域すべての方々及び現在でも寒さに耐え避難所の生活をされている方々に、お見舞いと深い感謝の念を捧げたいと思います。
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さて、東北の定義、場所、まずはそこから入りたいと思います。
現在では東北6県(青森、岩手、秋田、山形、宮城、福島)を指しますが、東北とは大和朝廷が呼んだ蝦夷(北海道も含めて)と言われる地域、人と重なります。
日本は弥生時代の稲の伝播を経て弥生文化が本州全域、四国、九州の過半に広がり、列島は縄文文化に江南人の文化が重なった稲作ハイブリッド文化によって塗り替えられていきます。東北にもその時期に稲作が到来しますが、弥生時代中期に青森に稲作が認められて以降、実はその後紀元後6世紀まで稲作が途絶えてしまいます。
東北が朝廷から蝦夷と呼ばれたこと、稲作が途絶えた事、これが東北とは何か?を考える糸口となります。
蝦夷とは何か?
「蝦夷の地と古代国家」熊谷公男著~山川出版社から紹介します。

エミシは「蝦夷」と表記されることが一般的であったが、この用字には古代国家の蝦夷観念の側面が示されている。「蝦夷」の「夷」は華夷思想で中国の東方の化外の民とされる「東夷」の「夷」に由来することから「蝦夷」観念は日本的な華夷思想によって生み出されたことになる。次に「蝦」はエビのことであるが、中国ではエビが長いひげの象徴として用いられた事から蝦夷と呼ばれた人々が長髪、あるいは多髭であることを示そうとしたらしい。
またエミシは「毛人」とも呼ばれ毛深い人々であった事を示そうとしたことに相違ない。古代王朝が主張・喧伝した蝦夷観念とは「野生獣心」の性質で「多毛」の外観を備えた異俗、異相の民という内容をもつものであった。もちろんこのような蝦夷観念は華夷思想の影響のもとに構成された支配イデオロギーであって、多くの誇張や虚構を含むものであったから、これを事実と混同するようなあやまちをおかしてはならない。
しかしもう一方で「蝦夷」と呼ばれた人々の多くが、実際に倭人と異なる文化を保有していたことも否定できない事実である

この記述にもあるように古代7世紀の時点で明らかに弥生文化、その後の古墳文化を受け入れなかった北方の地があるのです。以下は著書にまとめられていた蝦夷の範囲です。

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~著書より抜粋

文献著書や蝦夷と内地を区切った柵の後から類推して蝦夷の地は2つの境界線を設定する事ができます。南限は「国造本紀」に記された範囲で新潟平野―米沢盆地―仙台平野を結ぶライン。
また平安初期にいわゆる蝦夷討伐として征夷大将軍の役職が生まれた時代の境界線はそこからかなり北へ上がり秋田県と山形の県境と宮城県仙台を結ぶラインとなります。蝦夷の範囲はこのように時代によって多少変動していったのですが、山形でも古墳が見られる事から概ね秋田、青森、岩手、宮城がその中心地と呼んでよいと思われます。また広域的には山形、福島、新潟を含む7県が蝦夷の地に相当する事になります。
そこでこの蝦夷という地の文化なり人の特徴について見ていきたいと思います。
最初に断っておきたいのは蝦夷というまとまりは大和王権が自分たちの都合で呼んだだけでそのような文化的集合や集団としてのまとまりがあったわけではありません。
当然、地域によって少しずつ異なり、その土地の特性に併せて生活が営まれ当然その中で文化的形成はなされています。言わば大陸の支配文化の影響を受けていない縄文文化の生き残りが蝦夷の総称だと考えるとわかりやすいと思います。
生業は狩猟、漁労、採集が中心で6世紀段階でも農耕はあまり営まれていません。また、縄文晩期と弥生時代後期に寒冷期を経験しており、北方民族が南下してアイヌ同様に大陸北方の文化的影響をこの時代に受けていきます。しかし一方で仙台平野を中心に関東、東海との交易はすでに3世紀から4世紀にかけ、かなり密接に行なわれており、須恵器を中心とした土器の生産、物流を行なうネットワークの結節点が東北にあった事も最近の発掘事例でわかってきています。さらに既に8世紀には鉄の生産も福島県金沢地域周辺で行なわれており、土器→鉄生産を基盤とした職人集団が東北の一角に登場していたことを伺わせます。
蝦夷文化と敢えて呼ぶなら、縄文的生業(採集、狩猟、漁労)をベースにしながら南方からの文化を受け入れ土器、鉄器、玉器などの手工芸文化を特化させ、最後に7世紀以降品種改良された稲作を取り入れ一大農耕地帯に転換していった、その総称を呼んでよいのではないかと思います。
しかし、この地は倭人がなだれ込んできたわけではなく、土着の人が倭人との交流の中で必要な物を柔軟に取り込んでいったのです。その意味ではこの時代の呼称が続縄文時代と言われるように決して縄文的文化体系は失っておらず、伝統的な狩猟や墓制、言語、信仰形態といった本質部分は少なくとも平安時代まで、その精神的基盤は現在まで失う事無く残されてきました。
次に蝦夷の社会構造を見ていきたいと思います。
再び著書の中から紹介します。

蝦夷と倭人ではその社会構造も大きく異なっていた。倭人社会は古墳時代以降、政治的統合が急速に進み、国家形成の道を歩むが、蝦夷社会は社会全体を統合するような権力が未発達で、個々の蝦夷集団の自立性が相対的に強かった。
蝦夷社会の基礎単位は律令制下の郷程度の規模の「村」でそれらが相互に独立性を保ちながらもネットワークを形成してゆるやかに結びつき、ヒト、モノの交流や情報伝達が行なわれていたと考えられる。緊急時にはこのネットワークを介して共同した軍事行動をとることも可能であった。蝦夷は文化も社会構造も倭人とは異なる存在だったのである。尚、このような文化構造は東北北部の蝦夷を念頭にしており、蝦夷の南限に近い現在の宮城・山形県域などの東北中部や新潟県の蝦夷は基本的に倭人と同様であったとみてよい。

蝦夷の社会構造は縄文時代からほとんど変化していない事を伺わせます。縄文時代の我が国は村単位での集団が広域にネットワークで繋がっていたとされています。支配という明確な縦の軸がない変わりに、このネットワークという横の繋がりが強力な社会的インフラの基盤だった事は押さえておきたい内容です。
蝦夷支配の歴史
平安時代に蝦夷征圧で朝廷軍から東北へ数万の兵が送り込まれ、ゲリラ戦で抵抗し戦争は長期化しますが、アテルイというリーダーが最後には取り押さられ、数十年にわたる持久戦に終止符を打ち朝廷がついに東北地方を併合します。
ただ、本編はそこのディテールを押さえる事が目的でないので詳細は割愛します。興味のある方は過去の記事を参照下さい。⇒戦った縄文人
いずれにしても東北はこの時代に力ずくで倭人文化に組み込まれました。しかし、京都から見れば辺境の地です。鉄の産地としての旨味はありましたが、それ以外は統治が及ばない遠隔地、やがて再び自主独立の地として東北地方はその縄文的体質を温存させて江戸時代まで推移する事になります。上記同様、文化は中央から吸収するが精神は残っていきます。これが東北の特質であり、故に縄文的価値観は今も色濃く残っているのです。
東北に残った縄文の精神とは?
これらの歴史を経て現在でも東北には共同性、自然への畏怖の精神、災害への備え、自給、自治の体制が残っています。東北はこれらをどのように残してきたかをいくつかの具体的事象から見ていきたいと思います。
鬼の文化
東北には今でもなまはげ、ねぶた等、鬼を主役にした祭りが残っています。
この鬼の文化が東北を代表していますが、この鬼は何を指すか?何を意味するか?これについて考えてみます。鬼の文化は日本の他の地域でも見られます。例えば岡山の桃太郎は有名で同様に西日本でも鬼を祭りや伝説に登場させています。しかし一般に西日本の鬼が邪悪の象徴として表現されるのに対して東北の鬼には別の要素が加わっています。例えばアテルイに代表される鬼は戦士の象徴です。また泣いた赤鬼に代表されるようにヒトになりたがる鬼を物語りにしたりもします。なまはげは毎年大晦日に各家庭に訪れ、子供は恐怖を覚え泣き叫びます。これら多くの役割を東北の鬼はもっているようです。
鬼は一般に大和朝廷の時代に縄文人を指して毛人や蝦夷と呼んでいたように縄文人を差別する意味で伝説にされてきました。鬼は倭人にとっては忌み嫌うものだったのです。しかし、東北地方に今でも濃厚に鬼が残っているとしたら、それは別の意味の鬼だと思うのです。これは私の感覚ですが、東北の人は恵みと災害を与える超越する自然というものに対して畏怖の感情を持っており、それを鬼に投射させたのではないでしょうか?自然災害を度々経験し、自然の力を目の当たりにしてきた東北の人々はいろんな形で自然への畏怖と尊厳を伝えていく為に鬼という存在を残していったのではないでしょうか?
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なまはげねぶた祭りよりお借りしました。
東北に生まれた共同体企業「わらび座」~新しいものと古いものを融合
東北は新しいものと古いものを融合させる事を伝統的に行なってきました。
日本の文化は弥生時代以降はほぼ西から入ってきます。九州や畿内のようにいきなり大陸から人、物が到来してあっという間に取り込まれるという事から地理的に隔離されています。従って東北の人は受け入れるのも変化するのも一定の期間を使いながら租借する事ができました。
秋田にわらび座という演劇集団があります。1951年に創業し、劇団四季などと同等の規模を持つ彼らの企業運営はまさにこの東北という土地の特性に根ざした模索しながらの50年でした。

それは、芸術家集団にありがちな“唯我独尊”路線でもなく、かといって欧米文化べったりの華美な大衆路線でもなく、日本芸能の実践を秋田県仙北市という地域に根ざして活動するという、どちらかと言うと地味な存在だった。
>劇団は創立した頃と現在では、まったく違う姿になっている。構成員の350人は、60%が地元出身だ。よく第3セクターではないかと聞かれるが、バリバリのエンターテインメント企業だと思ってもらって良い。ユニークなことは、劇団の公演をコアに、農業体験、ブルーベリー摘み取り体験、わらじ作り教室、木工・陶芸・オカリナ教室、健康体操教室、民舞教室などを同時並行で展開している

90年半ばから、わらび座は、 特に人間同士のつながりと共生のテーマを打ち出した。共生とは、開かれたシステムにおいて、様々な異質的なものの積極的な共存を意味することである。また、この共生の考えは、価値観の強要や社会の同質化を方向づけるのではなく、異質的存在を認め合う上で新しい結合関係を目指すことを意味する。共生の主題は今後のわらび座の活動に多様な可能性を生み出す。

企業が「地域密着」で成功するには?
100%共同出資の企業だからこそ、本気で伝えられるものがある!
⇒今でこそ斬新な発想と柔軟な運営と評価されるこのわらび座も紆余曲折の歴史があったようです。しかしそれらの社会的外圧に真っ向から対面し、新しい価値(=共生)を作り続けたこの企業は今や東北文化を発信する中心集団となっています。
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日本の台所としての東北
東北の食糧自給率は107%で稲は全国の27%を収穫します。日本全体が40%を切ろうとしている現在、この数字は非常に大きな可能性を感じます。また、黒潮による豊かな猟場を有しており漁獲量も全国で最大で関東の倍、近畿の3倍を有しております。さらに林業も豊かで、鉱物資源も鉄だけでなく金、銀も含めて日本最大の鉱物ラインを有しています。
自然の恵みからみた東北及び日本の現状
今回の震災でこれらの何割かは収穫ができなくなりましたが、それでも日本最大の資源立地である事は変わりません。これら東北が有する土地の潜在力は東北への辺境史観からほとんど今日まで強調されてきていませんでしたが、今回の震災を経てその一部を失った事でようやく多くの日本人に知らされることになりました。
以上、東北の持つ可能性や縄文的資質について少しだけ触れさせていただきました。
紙面の関係でこれ以上多くを書く事はできませんが同様のこれまで私たちが意識してこなかった東北の可能性事象はたくさんあるように思います。
日本人は東北から何を学ぶべきか?
昨年の震災の災禍はまだ続いています。現在形の中、私たち東北から離れたところに居るものが学ぶといってもそれ自体本気さがどこまであるのか疑わしいものです。
しかし、今回の震災で私たち日本人は多くの事を学ばなければならないと思います。
また、学ぶ機会を与えられたのだと思います。
東北は先述したように日本人の精神的原点である1万年に渡る縄文資質を最も色濃く残せてきた地域です。私達の中にもその資質は当然組み込まれているのですが、市場化、欧米化によって失われつつある日本人の資質を今一度、東北の地から学び取らなければなりません。東北人はあまり多くを語りません。ましてや震災に遇われた方々は、日々の暮らしを生きていくので精一杯です。2012年は復興元年になります。彼らはきっと力強く復興していくと思われますが、私たちはそれを注視し、理解し発信していく事が役割だと思います。
そして彼らが得た教訓やこれまで東北で培ってきた災害や自然という対象への視線を受けとり、自然の摂理に則った国つくり地域作りを見直していかなければならないと思います。
なにやら最後はどこかの市政の言葉のようになりましたが、全ての日本人の本能を直撃した今回の震災は間違いなく何かの変化のきっかけになると思います。それを最も実践先行していくのが東北であり、私たちは同じ日本人として彼らに導かれていく事になるのではないでしょうか?
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・避難所でおじいさんが「これからどうなるんだろう」と漏らしたとき、横に居た高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元に戻します」って背中をさすっていた。
・たくさんの物を失ったり、流されたりしたが、今こそ力を合わせて立ち上がるべきだと思う。人は力を合わせれば何でもできると思う。(岩手県山田町・中学2年生)

こういう子供たちが東北を支え、日本を支えていく。震災という経験を経て日本はきっと強く変わっていくと期待したい。

投稿者 tano : 2011年12月30日 List  

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コメント

>「日本人は何を信じるのか」このお題を追求する中で見えてきたのは、ずばり、日本人は何を信じるのか」という問い自体に無理がある!という事です。
終わりよければすべてよしな気もしますが、やはりタイトルは失敗でしたよね。それだけが残念。内容は非常に勉強になりました。これからも記事を楽しみにしています。タイトル選びだけは慎重に。

投稿者 yama3nande : 2012年10月8日 00:22

明治から西洋の一神教のぱくりとして国家神道を作ったじゃないか?しかも全員熱狂した、なぜ日本人は自分の歴史を直視できないか?
日本人は島国だから、共同体と共認ができるという観点はとんでもない。
多様性を消滅していまの生態荒地になったわけ、もともと多彩な民族と文化があったはず、全部消滅したわけ。
生態系でいえば、一種しかない植物で構成された荒地です
イギリスでもイングランドなど四つの民族と地域がある

投稿者 匿名 : 2012年10月8日 01:25

信じるの「信」とは人と言う(言葉)と書きます。
私は、思うのです。
この人の言う言葉とは、どれだけ不確かなものかと。人と通じ合うということは、この言葉の背後にある潜在思念を読み取って、初めて、通じ合う=ともに認め合うことができるのではないか?と思っています。
 日本人は、この表層的な記号としての言葉を信じなかった。ものの概念化とは、定義が必要になってくるが、正しい史実や人々の意識の読み取り方をしないで、個々人や集団のみの知識で理解し、定義したところで、限界があり、嘘・偽りという意識がなくとも、捉え違いをし、勘違いを起こし、自我(他者否定と自己正当化)を増幅してしまうということになりかねない、危ういものと感じています。
 言葉は道具に過ぎず、その背後にあるともに分かち合いたいという気持ち、言葉の背後にある心=共認内容を過去から真摯に日本人は掴み取ろうとしてきてきたのではないだろうか?と。
それには、言葉も雰囲気も行動もその人なりも、周りの状況も、歴史も併せ持って、受け入れ、同化し、いつも総合的な現実判断してきたのが、日本人であり、全世界にいた古代人の根底の考え方を踏襲してきたのではないか?と思います。
 
 もし、仮に、無理に、日本人が信じてきたものはなにか?と問われれば、それは、和合観念のような調和と本源性・みなの充足規範、自然の摂理を信じてきた=基盤にしてきたのだろうと思います。それには、信じるという言葉が当てはまらない世界があり、全てを受け入れてきたというほうが真っ当な言い方になるでしょう。
 不全がなければ、特定の言葉を信じる必要はないはずです。充足基盤をベースとした日本人には、本当になじまない言葉だと改めて思いました。

投稿者 2310 : 2012年10月8日 01:45

何でも受け入れるを悪用されているという視点での記述が無いのが問題だ。

投稿者 196号線 : 2012年10月8日 20:08

日本人の無宗教の分析ありがとうございました。
参考になりました。
私は、少し前まで典型的な無宗教を誇る日本人でした。
しかし、今はキリスト教を信仰しています。なぜなら、驚くほど理路整然とした宗教だからです。ここに書かれていたような、西洋の歴史的背景のみで自然と生まれたものでは決してありません。時間があるときにキリスト教に関する考古学的な研究結果を調べて欲しいものです。
さて、日本人はなんでも受け入れるという寛容さを売りにしていますが、宗教相対主義の盾で、特定の宗教を信仰することを拒否しているだけとも考えられます。まぁ、金銭目的、ご利益主義の宗教団体ばかりが乱立する日本では、信仰することの意義が見失われがちになるのも仕方がないですが・・・。
とにかく、信仰しないことを誇って意味のない神社や寺で手を合わせたり、人生の目的を物質的なものを中心にしている態度に疑問を持つことが大切だと思いました。

投稿者 k.o : 2013年1月13日 02:47

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