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2010年01月16日

アイヌは縄文人の末裔か?(最終回)私たちがアイヌに学ぶべき事とは

これまでの探求から、私たちはアイヌ人の歴史に何を学ぶべきでしょうか?
本当の最終回になる今回の記事はこれについて書いてみたいと思います。
現在、世界的な視点でみれば社会は物質文明の限界を迎えています。豊かになる為に営為形成されてきた市場社会という枠組みは各国で綻び限界に来ています。市場社会が持つ本質にその原因があることは多くの識者からすでに指摘されています。
この市場社会の本質は自我の正当化にあるのですが、その為に近代思想を生み出し、個人を原点とした世界観を絶対的なものとして定着させました。即ち、市場社会の閉塞の突破口は”原点は個人ではなく集団である”という集団規範の再構築です。
すでにこのブログの記事で何度か出ているように、集団秩序の形成と拠り所となる確かな事実基盤が求められます。両者共、アイヌ文化にたくさん残されている神話体系や規範体系の中にヒントを見つけ出す事ができるのではないでしょうか。以下4つに分けて提起したいと思います。
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【①再生という概念は自然界と人間を結ぶ統合概念】
アイヌ神話は全ては一体となって巡って存続していく=再生していくという概念に基づいて、どのように自然や周り(集団)と対話し、関わり合っていけばいいのかを伝えていっています。それは『再生』という概念こそが、アイヌの集団規範の根幹であり、それを神話として伝えていくことこそが、集団の秩序を守っていくことだと考えていたからではないでしょうか。~第6回「アイヌ民族の信仰」より
アイヌは集団秩序の根幹に再生という概念を置いています。女性への尊敬、集団と成員の関係、男の役割、女の役割など、縄文時代の社会構造がアイヌ神話の中はたびたび見られます。
この再生の概念を現代社会に適応させるとどうなるのでしょうか?
永続的な社会をどのようにすれば私達は作っていけるのか、そこの発想に立つ必要があります。
sunrise3700081-490x325.jpg
【②事実体系として世代を超えて伝えられた神話=次代へ繋げる叡智の連鎖システム】
アイヌは精霊信仰と自然崇拝という事実体系を神話にしています。自然の摂理を見いだし、それを破壊しない枠組みの中で社会を存続させていくというところに世界観を置いています。
アイヌが膨大な神話体系を伝承して歴史を繋いで行ったように、私たちは新たに自然科学や自然の摂理の中から事実を抽出し、行き詰まった私権社会の体系を塗り替えていく必要があります。
そしてそれらを常に更新し、次代に繋げていく叡智の連鎖システムを作り上げなければいけません。
アイヌ民族が口承にこだわったのは文字による記録が彼らの“叡智を伝える”という行為にそぐわなかったからです。現在的には口承に代わる道具として多くの人に意図を伝えるインターネットが相応しいのではないかと思っています。この道具を使って万人を繋ぐ叡智の連鎖システムを作り上げる事ができないでしょうか。
IMGP1715.jpg
しんえいおやじブログ」さんからお借りしました。
【③縄文的資質を日本人の中に見つけていく】
アイヌ人同様に私たちの中にも縄文的資質は温存されています。
アイヌ人は和人からの厳しい略奪と伝染病への抗体のなさから民族としての存立基盤を大きく失いましたが、日本人の形成過程は渡来人と縄文人の混血が略奪を経ずに進んだ事で縄文的共認を温存する事ができたのではないかと思います。
既に言語の投稿で紹介しましたが、アイヌ語も日本語も基層に南東語の語彙を共通で持っており、言語としては縄文語をどちらも継承しています。アイヌ文化が縄文語を継承する事で共認を温存させたように言語の継承はそのまま共認内容を次代に伝えていく有力な根拠となるのです。
今回私達はアイヌ語から縄文語を見ていきましたが、同様に日本語の中に渡来人の影響によらないその前の痕跡を認める事ができるとしたら、それが私達の中に残っている縄文的資産です。
⇒「日本語」関連投稿のインデックス(多くの日本語の可能性が語られています)
【④闘争も集団規範を構築する事から始まる】
日本人は戦うことを避ける平和的な民族と言われています。一方で闘争忌避ゆえの戦えない民族とも言われています。
これはこのシリーズではあまり扱ってきませんでしたが、アイヌの抒情詩「ユーカラ」にはアイヌの和人との戦いの歴史が多く書かれています。英雄伝であったり、和人から受けた様々な仕打ちであったりです。それらが民族の結束を固くし、江戸時代に数度の戦いを挑んでいます。もちろん物量共に適わないアイヌは度々松前藩に制圧されますが、明治政府による統合政策が敷かれるまで最後まで戦ったのがアイヌ民族ではないかと思います。民族の為に戦い、命を掛けていった勇者はたくさんいました。注目すべきは戦うということを集団規範に置き、徹底的に抗戦したという闘争性です。彼らはなぜ戦うことができたのでしょうか?
戦時中の日本兵に通じるものがあるのかもしれませんが、日本兵が守ったのは作られた天皇という偶像であったのに対し、アイヌの守るべきそれは祖先からあずかった自然であり、大地でした。日本兵は誤った情報に扇動されたのに対し、アイヌはユーカラに伝えられた慣習を元に闘いました。アイヌは和人の搾取という行為に対し彼らの慣習の中にあった制裁を加えたにすぎないのです。
何を守り、何に向かって闘うのか・・・アイヌの戦いはそれを教えているのかもしれません。
日本人がこれから立ち向かうべき相手はアイヌと同じように大きく手ごわいものかもしれません。事実を万人で共有し、どこに向かって何の為に戦うのか、闘う為にはまずそれらの集団規範を構築していく必要があります。
shakkun.jpg
攻略日本史」さんよりお借りしました。

日本人のルーツとして縄文人や縄文文明を探求する事は必須ですが、縄文人はすでに2000年前には姿を消しており、考古学資料や遺跡からでしか推測することはできません。しかしアイヌ民族が最も縄文的素養を残している民族であるとしたらアイヌに学び、アイヌを研究する事は即ち縄文を知ることになり、日本人の起源を知る事にも繋がるのです。
今回アイヌを学んで明らかになったことを最後にまとめておきます。
>①自然の摂理から学びとった「再生」という概念で社会や集団の秩序構築を図っていく。
②集団規範の再構築の為に後世に伝える為の叡智の連鎖システムを作り上げる。
③日本人の中に眠っている縄文資質を呼び起こす。その為の根拠となる事実を発掘する。
④縄文人の末裔である日本人は闘えないのではない。戦うための集団規範が失われているだけだ。
戦うためには真っ先に集団規範の再生が急がれる。

以上を提案して縄文ブログの今回のシリーズは終わりにしたいと思います。
長い間お付き合いいただきありがとうございました。
2月から始まる次回の探求シリーズにご期待下さい。

投稿者 tano : 2010年01月16日 List  

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コメント

tanoさん、気がついちゃいました。何故、茶の湯か。先々回の劇場で提起されたように、社会の上位階層に取り入らなくては、私権を手にすることは出来ない。つまり、社会の上位階層に取り入る手段こそが、文化であり、茶の湯だったんではないでしょうか。では、残る葉当時の社会上層階級が、何故、茶の湯を「高尚なもの」と感じたかですね。
>限定した自然を用いながら世の無常を表現した「わびさび」という世界は武士の置かれている心情に合致し、さらに武家が望んで手に入らなかった貴族文化の象徴としての茶道を新しいものとして武士社会に持ち込むことに成功
うーん、わからなくもないですが・・・・あと一歩な感じですね。縄文的感性???宿題にさせて下さい。

投稿者 怒るでしかし~ : 2010年4月1日 01:36

こんにちは♪
 >堺商人の成功したもう一つの理由に武器という“実質”とそれをまぶす芸能、文化という“入り口”を両方セットで兼ね備えていたという事が言えるのではないかと思います。
同感です。ただ、武器とワンセットにされたとは言え、中世の堺という自由都市の存在は、文化芸能の真の作り手を救ったという一面をも兼ね備えています。
観阿弥・世阿弥を示すまでもなく、善阿弥を示すまでもなく、文化・芸能・特殊技術の真の作り手は、その多くが河原者(これ以上の表現は控えます)といわれた人達です。
彼らにとって堺のような自由都市は、たとえ商人によって利用されようとも、生き延びていける場所であったのではないでしょうか。
また堺は東南アジア(ルソン)との交流もさかんに行っていました。したたかに発展した都市、堺は奥が深いですね。

投稿者 milktea : 2010年4月1日 16:23

起こるでしかし~さん、ありがとうございます。
しかしこのハンドルネーム怖いですね。
まず今回は何を怒られるのだろうかと身構えてしまいます(笑)
今回は怒りではなく気付きでしたね。
>社会の上位階層に取り入らなくては、私権を手にすることは出来ない。つまり、社会の上位階層に取り入る手段こそが、文化であり、茶の湯だったんではないでしょうか。
ちょっとしたコペルニクスの発見ですねー
つまり・・・
武士の誕生から数百年して武将は地位も中身も含めた私権獲得に向かったという事ですね。貴族からしてみれば武力はかなわなくても武士など所詮素行の荒いレベルの低い人種という見下げた意識でいたでしょう。既にお上からお墨付きをもらっていた武士にとってはそれが一番の泣き所だったのかもしれません。
名実共に貴族に勝る為には金や力を得るだけでなく、貴族に勝る感性と教養が必要になった。戦国時代とは武士という下が貴族という上を飲み込むための下克上の動きだったのかもしれません。
その意味では市場とは武器も金も上昇意欲も学問も私権獲得の為に登場するさまざまなジャンルに関わり、それを提供していったことがわかります。
ぜひ江戸でコペルニクスを深めてください。

投稿者 tano : 2010年4月1日 20:10

milkteaさん、いつも早々のレスありがとうございます。
>また堺は東南アジア(ルソン)との交流もさかんに行っていました。したたかに発展した都市、堺は奥が深いですね。
その通りですね。
堺の中世は商業都市、自由都市と呼ばれていますが、もう一つの側面が国際都市です。それもこの時代の貿易の広さを示しています。中国や朝鮮半島だけでなく、むしろこの時代は琉球を通じて東南アジアとの交易が広範囲に行われていました。
そこでは多くの物資と共にまさに雑多なアジアの文化が入り込んできたのだと思います。今日でも大阪が極彩色で国際的で賑やかで実質的なのは堺の系譜を踏んでいるのでしょう。
中国の荘厳な王朝文化ではなく東南アジアの庶民的な海洋文化がこの時代の堺に多く入り込んできたのだと思います。
いろんなもののごちゃまぜーーー確かに奥が深いですね。
もう一つの堺も追いかけてみたいと思います。そのうちに・・。

投稿者 tano : 2010年4月1日 20:18

>堺商人は最も高く買ってくれる武将のところに行けば良いわけで、武器の値段はどんどん吊り上げることが可能になったのです。
>堺商人はこの時代、全国の武将に鉄砲を売り歩いており、まさに戦争を作り出した日本版ロックフェラーさながらでした
欧米の武器商人○○○○のような大金持ちが居てもよそうなものですが堺出身者の大金持ちをあまり聞いた事がない。
江戸と言う時代を向かえてしまったからなのか、それとも平民には知らない所で資産が代々受け継がれているからなのでしょうか・・・。

投稿者 nishimu : 2010年4月1日 22:42

>なぜ茶の湯なのか?
おもしろいのでいっちょ噛みします。
高校時代から10年間くらい、表千家・裏千家をかじりましたが(あまりにもオテンバでしたので、自制の念&異界への興味が働き)、あれって、本当に様式・形式がバッチリ固められ、作法やふるまいが決められているんですね。畳一枚は6歩で歩けとか、この道具を置くときは畳み目4つ分あけた位置に置けとか。ふくさ(ハンカチのようなもの)のたたみ方、お茶碗の拭き方、お手前の途中で何気に道具を右手で引いているように見えるのも、実は手順の中に組み込まれている。
最初は苦痛でした。
そんなん、どっちでもええやん!
おいしいお茶とお菓子を楽しもうよ!
でも、だんだん心地よくなってくるんですね、その制限だらけの中に身を委ねることが。で、それだけ決まりごとが多いのに、やっぱり良し悪し、美しいor notは出てくる・・、ような気がする。
この「気がする」というのがミソで、様式化されればされるほど、幻想価値が上がる、というのではないかな?と思ったりします。
お能なんかもそうなのではないでしょうか?
「わかるひとには、わかる」というスノッブな貴族趣味を気取るのには最適領域のように思います。
以上、実感から。

投稿者 うらら : 2010年4月2日 19:00

nishimuさんコメントありがとうございます。
>欧米の武器商人○○○○のような大金持ちが居てもよそうなものですが堺出身者の大金持ちをあまり聞いた事がない。
これ、意外と鋭い視点ですね。
考えてみれば近江商人もそのような○○家はいません。
これは商人の財産が相続されにくい事を示しているのではないでしょうか。相続税か何かで商人が一代限りでリセットされる仕組みを考えていたのかもしれません。
日本と欧州の商人の違いが明らかになるヒントがあるように思います。よく調べていませんがその辺りも調べていくと商人を押さえ込んだ幕府との関係が見えてくるように思います。
ありがとうございました。

投稿者 tano : 2010年4月2日 20:55

うららさんコメントありがとうございます。
コメントが盛り上がっていて嬉しいです。(^^)
>この「気がする」というのがミソで、様式化されればされるほど、幻想価値が上がる、というのではないかな?と思ったりします。
お能なんかもそうなのではないでしょうか?
「わかるひとには、わかる」というスノッブな貴族趣味を気取るのには最適領域のように思います。
確かに!
茶道、華道、日本建築、日本庭園、日本で生まれた文化はすべて様式と伝統という名の窮屈な決まりごとがあります。これら、武士が皇室にあこがれたように、貴族が天皇にあやかろうとした様に、いずれも上への志向性の中から生まれてきた文化のように思います。それにもかかわらず、西洋のようにきらびやかさや派手さがないのは「和の心」というよくわからない要素を組み込んでいるからでしょうか?
しかし、このよくわからない要素こそ、日本人の誰もが「わかる人にはわかる」と思って信仰している共通事項のように思います。
別のテーマで扱っている縄文体質を切開するにも使わせていただきたいと思います。

投稿者 tano : 2010年4月3日 01:03

こんにちは
 >日本で生まれた文化はすべて様式と伝統という名の窮屈な決まりごとがあります。これら、武士が皇室にあこがれたように、貴族が天皇にあやかろうとした様に、いずれも上への志向性の中から生まれてきた文化のように思います。
だからこそ、最初わたしがコメントした河原者の痛みを感じるんですよ…どうでしょうか?

投稿者 milktea : 2010年4月3日 06:56

>だからこそ、最初わたしがコメントした河原者の痛みを感じるんですよ…どうでしょうか?
wwww・・・
これについてはコメントを差し控えさせていただきます。
商人と河原者との関係については別途扱います。

投稿者 tano : 2010年4月4日 12:21

まさか、たわいもない(?)疑問にレスしてもらえるとは思っていませんでした。
>考えてみれば近江商人もそのような○○家はいません。
この一文で、ふとそうか?と気付いたのが、
縄文体質のテーマでも触れられているように、日本人が個人や個性よりも集団性や集団を重んじていた“=充足を得ていた”所以なのではないかと思いました。
そして、思い出したのが、日本の精神“連”です。
そこで、引用されていた文で、
>江戸時代では、個人が自分の業績を声高に主張しなかった・・・http://blog.katei-x.net/blog/2009/05/000832.html
集団の中で創造性を磨いていったからこそ、多くの発明を生み出したり、今でも多くの老舗企業が残っているのだと思います。

投稿者 nishimu : 2010年4月8日 22:57

nishimuさんへ
>この一文で、ふとそうか?と気付いたのが、
縄文体質のテーマでも触れられているように、日本人が個人や個性よりも集団性や集団を重んじていた“=充足を得ていた”所以なのではないかと思いました。
集団性を重んじていたのは確かだと思いますが、
商人が力を持ちすぎる危険性をかなり早い段階で察知していたのではないかと思うのです。
私権という概念はなかったと思いますが、それに似た認識を既に持っていて、私権を助長するようなしくみを時々に排除していったというのが実態ではないかと思います。
それが結果的に見れば集団性を重んじているように見えるのかもしれません。
老舗企業が残ったのはやはりそれら日本の風土や共認を注視し、しっかりと根ざした会社だったからだと思います。その意味では外資系企業などは一時のあだ花になるでしょう。
nishimuさん今後ともよろしくお願いします。

投稿者 tano : 2010年4月9日 13:18

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