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2010年01月19日

「稲作伝播は私権社会の引き金か?」6~渡来人が持ち込んだ「私権意識と私婚制度」

こんばんは~
今年もよろしくお願いします。
前回の『自然観ではなく集団共認破壊が原因』からは、以下の内容が紹介されました。
・農耕も牧畜も遊牧も、同類闘争圧力に促されて発明された。
・友好関係から闘争顕在化へは、集団統合共認の有り様の変化、または集団統合共認の破壊を契機にしていること。
・集団共認を破壊するのは、サル以来形成された性闘争→自我の顕在化である。
では、日本においてはどのように私権社会へと移行していったのでしょうか?
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日本における私権時代への移行より

日本における私権時代への移行は、渡来人の価値観と制度がターニングポイントとなっていることが既に明らかになっている。この移行期における変化の推移を具体的に抑えていきたいと思う。
学界では弥生時代を作ったのは北方民族であるという説が有力なようだが、実際は2段階であった可能性が高い。まず2300年前後に日本に稲作を持ち込んだ部族は江南人と考えられる。
江南人とは中国の長江の下流及びその南部にいた人々を指す(当時の呉・越)。そして弥生時代を領導したのは彼らではないかと考えられる。

以下にそのいくつかの根拠を上げる
①日本の水稲に一番近い品種は、華中のジャポニカである。
②弥生時代に登場した高床式建築は(それに用いられている鼠返し、千木、鰹木も含め)江南地方から東南アジアにかけて見られる様式である。
③弥生に見られる墳丘墓(地面より高いところに埋める様式)は江南の呉越の土敦墓等ごく限られた地域の埋葬形式である。
つまり弥生時代は江南地方という特定地域のみに見られる文化の移入が顕著である。

●ジャポニカ米の分布
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●土煌墓の分布
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当時の大陸(中国)は、群雄割拠の時代である。2500年前に中国は斉・普・楚・呉・越の五国に分かれ相争っていた。その後2400年前には楚が長江全域を制覇していく。つまり当時既に呉越両国は押され気味であった可能性が高く、散発的に落ち武者が難を逃れて移住していた可能性が高い。つまり最も早ければ2500年前から既に江南人は(少数)九州その他に漂着していた可能性がある。そして稲作の伝播ルートから考えて、南朝鮮を経由した可能性が高い。更にその後2400年前に制圧された(滅亡した)江南人は新天地を求め、次々と日本に漂着したのではないか?(この漂着は最大2100年前まで約400年に亘った可能性がある)彼らはそれぞれ日本に少数の集団として定住する(一部は縄文集落に受け入れか?)。

彼らは戦乱の最中にあった部族である。かつ水稲農耕の技術と鉄器を持ち、租税制(階級支配)を既に経験している。当初は彼らは少数で、縄文人に対しての戦闘は行わなかったと考えられる。実際史跡でも縄文人の骨から矢じりの痕が残るものはごく少数である。(しかし少ないながらも江南人同士の戦闘は存在した可能性がある。それが居徳か?)それどころか部分的には縄文集落に受け入れてもらい高い技術力をもって、世代を経て指導的立場に立ったことも考えられる。それは縄文人の受容れ体質から考えて充分にあり得る。加えて縄文末期は寒冷化の過程にあり、ピーク時に比して西日本では人口は1/4に激減。つまり食糧確保や生産力増強の必要があったのである。

その後高い技術力と組織論を持つ江南集落の人口は(或いは江南人の指導者を受容れた集落)は急速に大規模化する。おそらくそのように大規模化し縄文集落に拮抗or上回る頃から本格的に侵攻を開始したのではないか?
因みに彼らの婚姻様式は(推定だが)妻問婚の様式である(ごく最近まで江南地方からインドシナ半島では妻問い婚の風習が残っていたことから)。一部は縄文集落への受容れを通じて、そして服属を通じて、縄文人と江南人の混血が進んでいく、おそらくそれが弥生人なのではないだろうか?

ここで、何よりも重要なことは、彼らが持ち込んだ最大のものは稲作などではなく、「私権意識と私権制度」であることである。あるいは母系制で縄文人がまだしも受容れやすい(?)、妻問い婚という婚姻制度であるとはいえ、私婚制度を持ち込んだことである。そのようにして西日本では(とりわけ九州地方)私権化した弥生人が勢力を増大させ本格的侵攻を開始する。その結果各地に部族国家が乱立する。(おそらくその過程では残存する縄文部族は山間等僻地に後退したのだろう。)
そのような時代が弥生時代(前期)なのではないだろうか?
その後弥生時代後記(1800~1700年前)に北方民族が本格的に襲来することで、広域の国家成立(大和)への道を辿っていたのではないか。

日本における私権社会への移行は、すでに大陸において私権集団(存在)化していた渡来人による侵攻の過程そのものであり、決して稲作という生産様式の転換によるものではない。
事実、日本の農村においては、戦前まで夜這いなどの集団婚の様式を残し、共同体を存続させている。
稲作が私権社会の引き金になるとすれば、これはあり得ないことでしょう。
いよいよ次回が最終回です、お楽しみに。
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投稿者 nishipa : 2010年01月19日 List  

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コメント

こんにちは
一万年前から始まる縄文…けれど、その前の本当に厳しい自然環境を知恵を出して生き抜きた岩宿時代にこそ、日本文化の原点があると思うのですが、どうでしょうか?
縄文は岩宿の文化を確実に受け継ぎ、固有の文化を生み出しました。『岩宿を語らずして縄文を語れない』といわれるのは、やはり縄文には、その前提があったればこそ、そのように思います。
次も期待してます。

投稿者 milktea : 2010年4月3日 07:06

>一万年前から始まる縄文…けれど、その前の本当に厳しい自然環境を知恵を出して生き抜きた岩宿時代にこそ、日本文化の原点があると思うのですが、どうでしょうか?
岩宿時代の事はくわしくは知りませんが、縄文時代の自然崇拝の基盤にはその前の数百万年間の人類が積み上げた精霊信仰がベースにあります。milkteaさんが仰る厳しい自然環境という意味では何度も乗り越えてきました。
縄文時代の特徴は自然の摂理を学び取り、まさに
>狩猟・漁撈・採集活動を生業の基本とした、森の資源、海の資源を極限にまで利用する技術を発展させ・・・
という部分かなと思います。
極限まで利用する中で自然を破壊しない共生や再利用という概念も生まれてきたのだと思います。
>縄文は岩宿の文化を確実に受け継ぎ、固有の文化を生み出しました。『岩宿を語らずして縄文を語れない』といわれるのは、やはり縄文には、その前提があったればこそ、そのように思います。
岩宿を知らずして語っています。(^^!)
岩宿を改めて勉強したいと思います。ありがとうございました。

投稿者 tano : 2010年4月4日 12:17

 tanoさん
岩宿時代とは、土器作成の前の時代です。まだ寒冷期で
食料採取も、メインは狩で、直火で食べていた時代です。
縄文と岩宿の境界は、もちろん突然やってきたわけではなく、少しずつ土器の広がりの中で移っていったと考えればいいのかな、と思います。岩宿の前となると、これは日本では、「明石原人」説までさかのぼってしまいますので、日本人の直接の祖先は、岩宿人となっているはず(考古学上)だと思います。
風習など、いろいろと引き継いでいるため、もしかしたら、縄文と岩宿を一緒に考える人もいるかもしれませんが、土器の出現は、生活を大きく変えたため、やはり時代区分は必用なのだと思います。

投稿者 milktea : 2010年4月4日 20:26

milkteaさん、tanoさん、コメントありがとうございます。
はじめて、縄文ブログに投稿させていただいたtamaです。
宜しくお願いします。
>一万年前から始まる縄文…けれど、その前の本当に厳しい自然環境を知恵を出して生き抜きた岩宿時代にこそ、日本文化の原点があると思うのですが、どうでしょうか?
「岩宿時代」初めて知りました。これから勉強したいと思います。特に、大陸と繋がっていた頃だとすると、大陸と文化を共有していて、日本の独自性は未だ現われて無かったのか、それとも地理的な条件の違いなどから、既に独自性が芽生え始めていたのかが気になります。

投稿者 tama : 2010年4月6日 01:01

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