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「稲作伝播は私権社会の引き金か?」6~渡来人が持ち込んだ「私権意識と私婚制度」

こんばんは~
今年もよろしくお願いします。
前回の『自然観ではなく集団共認破壊が原因』 [1]からは、以下の内容が紹介されました。
・農耕も牧畜も遊牧も、同類闘争圧力に促されて発明された。
・友好関係から闘争顕在化へは、集団統合共認の有り様の変化、または集団統合共認の破壊を契機にしていること。
・集団共認を破壊するのは、サル以来形成された性闘争→自我の顕在化である。
では、日本においてはどのように私権社会へと移行していったのでしょうか?
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日本における私権時代への移行 [4]より

日本における私権時代への移行は、渡来人の価値観と制度がターニングポイントとなっていることが既に明らかになっている。この移行期における変化の推移を具体的に抑えていきたいと思う。
学界では弥生時代を作ったのは北方民族であるという説が有力なようだが、実際は2段階であった可能性が高い。まず2300年前後に日本に稲作を持ち込んだ部族は江南人と考えられる。
江南人とは中国の長江の下流及びその南部にいた人々を指す(当時の呉・越)。そして弥生時代を領導したのは彼らではないかと考えられる。

以下にそのいくつかの根拠を上げる
①日本の水稲に一番近い品種は、華中のジャポニカである。
②弥生時代に登場した高床式建築は(それに用いられている鼠返し、千木、鰹木も含め)江南地方から東南アジアにかけて見られる様式である。
③弥生に見られる墳丘墓(地面より高いところに埋める様式)は江南の呉越の土敦墓等ごく限られた地域の埋葬形式である。
つまり弥生時代は江南地方という特定地域のみに見られる文化の移入が顕著である。

●ジャポニカ米の分布
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●土煌墓の分布
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当時の大陸(中国)は、群雄割拠の時代である。2500年前に中国は斉・普・楚・呉・越の五国に分かれ相争っていた。その後2400年前には楚が長江全域を制覇していく。つまり当時既に呉越両国は押され気味であった可能性が高く、散発的に落ち武者が難を逃れて移住していた可能性が高い。つまり最も早ければ2500年前から既に江南人は(少数)九州その他に漂着していた可能性がある。そして稲作の伝播ルートから考えて、南朝鮮を経由した可能性が高い。更にその後2400年前に制圧された(滅亡した)江南人は新天地を求め、次々と日本に漂着したのではないか?(この漂着は最大2100年前まで約400年に亘った可能性がある)彼らはそれぞれ日本に少数の集団として定住する(一部は縄文集落に受け入れか?)。

彼らは戦乱の最中にあった部族である。かつ水稲農耕の技術と鉄器を持ち、租税制(階級支配)を既に経験している。当初は彼らは少数で、縄文人に対しての戦闘は行わなかったと考えられる。実際史跡でも縄文人の骨から矢じりの痕が残るものはごく少数である。(しかし少ないながらも江南人同士の戦闘は存在した可能性がある。それが居徳か?)それどころか部分的には縄文集落に受け入れてもらい高い技術力をもって、世代を経て指導的立場に立ったことも考えられる。それは縄文人の受容れ体質から考えて充分にあり得る。加えて縄文末期は寒冷化の過程にあり、ピーク時に比して西日本では人口は1/4に激減。つまり食糧確保や生産力増強の必要があったのである。

その後高い技術力と組織論を持つ江南集落の人口は(或いは江南人の指導者を受容れた集落)は急速に大規模化する。おそらくそのように大規模化し縄文集落に拮抗or上回る頃から本格的に侵攻を開始したのではないか?
因みに彼らの婚姻様式は(推定だが)妻問婚の様式である(ごく最近まで江南地方からインドシナ半島では妻問い婚の風習が残っていたことから)。一部は縄文集落への受容れを通じて、そして服属を通じて、縄文人と江南人の混血が進んでいく、おそらくそれが弥生人なのではないだろうか?

ここで、何よりも重要なことは、彼らが持ち込んだ最大のものは稲作などではなく、「私権意識と私権制度」であることである。あるいは母系制で縄文人がまだしも受容れやすい(?)、妻問い婚という婚姻制度であるとはいえ、私婚制度を持ち込んだことである。そのようにして西日本では(とりわけ九州地方)私権化した弥生人が勢力を増大させ本格的侵攻を開始する。その結果各地に部族国家が乱立する。(おそらくその過程では残存する縄文部族は山間等僻地に後退したのだろう。)
そのような時代が弥生時代(前期)なのではないだろうか?
その後弥生時代後記(1800~1700年前)に北方民族が本格的に襲来することで、広域の国家成立(大和)への道を辿っていたのではないか。

日本における私権社会への移行は、すでに大陸において私権集団(存在)化していた渡来人による侵攻の過程そのものであり、決して稲作という生産様式の転換によるものではない。
事実、日本の農村においては、戦前まで夜這いなどの集団婚の様式を残し、共同体を存続させている。
稲作が私権社会の引き金になるとすれば、これはあり得ないことでしょう。
いよいよ次回が最終回です、お楽しみに。
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