新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます |
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2010年02月05日
「贈与」に何を学ぶべきか!~3、巨大集団の交流はなんのため?
こんにちは。弥生系顔の縄文人の末裔サティです 😀
『「贈与」に何を学ぶべきか!』シリーズの第3弾です
前回の、ぴんぐ~さんの投稿では、縄文人の集団間には盛んな交流が行われていたことが分かりました
第3回では、『なぜそのような交流が行われていたのか?!』について、巨大縄文遺跡の交流の跡を手がかりに考えられた投稿をるいネットの記事から紹介したいと思います
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るいネット「縄文時代の同類緊張圧力」より紹介します
>その絶対的必要とは=同類闘争である。同類闘争に備えようとすれば、あるいは対抗しようとすれば、必然的に規模の拡大or連合が必要になってくる。あるいは指導層や戦闘部隊 が必要になってくる。
そう考えれば、彼らが海に向っていた事も、矢倉=敵に対する監視塔の存在も、海への道路=部隊移動のため、も一定説明がつく。(三内丸山の大規模化は同類闘争に備えるためではないか?①)
三内丸山の津軽海峡をはさんだ対岸は北海道函館ですが,そこにも三内丸山に匹敵する可能性のある巨大縄文遺跡があります。
「サイべ沢遺跡」
>縄文時代前期初頭頃から中期末頃(約6,500年から4,000年前)にかけての大規模集 落跡と考えられています。 この遺跡の沢寄りの場所から、昭和24年の発掘調査により発見された円筒式土器(下 層・上層)は、7つの文化層に分かれ、東北地方の円筒土器文化の型式とほとんど同― のものとなっています。遺跡は、約30へクタール程の広がりがあると推定され、内容 的にも青森市の三内丸山遺跡に匹敵する可能性を秘めていると考えられます。
上記は,三内丸山とほぼ同時期なのですが,函館には他に縄文早期からの定住集落が見つかっています。中野A遺跡と中野B遺跡は函館空港の近くで宮の川の対岸にあります。
「中野A遺跡」
>縄文時代早期前半から前期初頭頃(約9,000年から6,500年前)の集落跡などが見つ かっています。 縄文時代における集落の跡としては、函館市内はもとより、北海道内においても最も 古い時期のものの―つにあたります。特に、津軽海峡の対岸、下北半島の物見台遺跡か ら発見された、貝殻で付けられた幾何学文様の尖底土器や北海道東部地方の平底の土器 と同様なものが見つかるなど、遠方との数多くの交易の姿を知ることができます。
「中野B遺跡」
>縄文時代早期後半から末頃(約7,500年から7,000年前)の大規模な集落跡が見つか っています。 この遺跡からは、600軒を超える竪穴式住居跡が見つかり、国内の縄文時代早期の遺 跡では最大級の集落跡といわれています。中でも、網のおもりとみられる石錘が大量に 見つかるなど、漁業を生業としていたことを物語っています。また、津軽海峡を挟んだ 下北半島の遺跡などに見られるものと同様な尖底・平底の土器が大量に見つかっていて、活発な交易が行われていた様子を知ることができます。
遺跡の解説は函館市のHPによる
三内丸山とは敵対的な関係であったのか,友好的な関係であったのかは,分かりませんし
三内丸山よりはるかに古くからの海をはさんだ他地域との交流は,贈与関係であったのか交換・交易関係であったのかも不詳ですが,これだけの巨大集落が海峡をはさんで向き合うとすれば,明らかに同類緊張圧力は存在したと考えられるのではないでしょうか。
>小規模集団に比べて、統合上色々面倒な手段が必要になってくる。つまりある意味で一体化を損ないかつ「余計な」仕事が増えてくる。(三内丸山の大規模化は同類闘争に備えるためではないか?①)
この大集団統合という「余計な」困難課題を達成する為に,縄文人たちは,共認機能,観念機能をフルに発揮し,能力ヒエラルキーに基づく多段階変成の集団組織を形成したのでしょうが,このような共認,観念機能の発揮は同類緊張圧力が存在するという前提抜きでは考えられないのではないでしょうか。
・・・・ 😛
巨大集団同士ゆえ、同類緊張圧力が高まり、戦争に繋がらないようにするために盛んに交流をしていたということですね。
ただ、こちら投稿でも、交易と贈与が明確に使い分けられておらず、また、交易か贈与かは不明なようなので、この機会にどちらであったのかを考えてみます
考えられるのは、
①交易
②緊張緩和のための交易
③贈与
の3つです。
①だとすると、価値のそれほど高くないものでも、相手をだまして高いものと言ってしまえば、その分自分達が得をすることになるので、そういう邪心が発達することになりますが、縄文時代は豊かで、戦争の痕跡も見つかっていないことから、交易にはなっていなかったものと考えられます。
②だとすると、邪心のある交易で、何百年もの間緊張緩和しつづけるのは非常に困難であり、集団を統合しきれずに戦争が起こっているはずなので、緊張緩和のための交易でもないと考えられます。
ということで、③の贈与の可能性が高いと考えられます。
画像はこちらからお借りしました。
ただ、三内丸山遺跡の矢倉のような建物が何に使用されていたのかは気にかかるところです。
「敵に対する監視塔」という役割ではなく、「遠くから来てくれる相手との情報をやり取りするため」のものか、展望台か、あるいはお祭りに使用する舞台のような役割をしていたのではないでしょうか。
投稿者 staff : 2010年02月05日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2010年4月22日 13:30
シェアさせていただきます♪
投稿者 入江 : 2013年4月5日 15:02
>江戸時代には鎖国という限られた国土条件の中で、持続的経済成長を実現してきたという、これからの経済システムのモデルとなる可能性が秘められています。
本当にそう思います。
この”限られた国土条件”という部分がポイントだと思います。限られているから採り過ぎない。限られているから大事に使う。限られているから再利用する。
この限られた資源を大切に使うという発想は日本の場合、時代をとおして貫徹されているのです。さらにその思考方法は遡れば縄文時代の採取生産の意識と同じです。採取生産は採り過ぎることを自主規制します。自然という循環の中でどこまで採って、どこまで残すか、これは長い年月を経てに採取民である縄文人の頭の中に刻み込まれていたと思います。
江戸時代の経済システムが再利用(リサイクル)に貫かれているのは衆知のことですが、あらためて江戸がなぜ社会のシステムとして完成できたのか、優れた制度や政治ではなく、これには日本人のDNAに刻み込まれている循環に基ずく自然観が幕府から末端農民まで一貫していたからなのではないかと思います。
「限られたものを使うにはどうする?」
これからの時代はこの意識がキーワードになると思います。それにはモノに対する感謝と反省が自然と湧き起こる心の有り様も必要です。
すでに現代の日本人には少ししか残っていませんが、大量消費、大量生産を抑制する力を内省力として経済をコントールしていくことが求められていると思います。「もったいない」というフレーズが数年前に流行ったのもその潮流でしょう。