【縄文再考】縄文土器の文様はなにを示すのか~無文字文化の中での集団・意識統合 |
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2021年10月29日
縄文再考~洞窟から竪穴式住居へ、縄文時代の定住化は集団での役割が明確になったから?~
みなさんこんにちは!
前回は縄文の時代ごとに竪穴式住居の建物形態の変化について辿ってきました。(→リンク★)
今週は「そもそもなんで洞窟の中から竪穴式住居に住み始めたの?」という謎に迫りたいと思います。
■旧石器時代は洞窟の中での生活が主流!
縄文時代草創期の人々が繰り返し連続的に利用していた?
今から約10万年前の中期旧石器時代、ヨーロッパや中東地方に生活していたネアンデルタール人(旧人)は、 洞窟や岩陰を生活の場として使った痕跡を各地に残しています。
洞窟や岩陰は古くから住居として使われてきましたが、それは洞窟の以下の特徴によります。
①外敵から身を守りやすい
②雨や風などをしのぐ事ができる
③洞内気温が一定で、夏は涼しく冬は暖かい
このような特徴をもつ洞窟は、住居としてだけではなく狩りをするための一時的な キャンプ地として使われたり、外敵から身を守るための避難場所として利用されてきました。 このように、家として使われた洞窟には以下のような共通点があります。
①洞口が大きくて、南向きで陽当たりがよいこと
②洞窟内に地下水があるか、近くに水場がある
③洞口付近に、作業ができる平らな場所がある(前庭部がある。)
日本各地に住居として使われた洞窟や岩陰遺跡が数多くありますが、 旧石器時代の洞窟遺跡は岩手県の風穴洞穴や栃木県の山菅洞穴、宮崎県の出羽洞穴など数は多くありません。 また、山形県高畠町には縄文草創期から古墳時代にかけての洞窟・岩陰遺跡が30ヶ所ほど確認されており、『日向(ひなた)洞穴群』や 一の沢岩陰群をはじめ、日箱岩洞穴、尼子岩陰などの遺跡から縄文草創期の隆起線文土器や多縄文土器が出土しています。浜北区の堀谷洞窟にも 縄文時代や弥生時代の土器や石器が出土しており、 住居として使われていたと思われます。
■穴を掘って住み始めた竪穴式住居はあったかく、自然外圧に適応した住まいだった?
縄文時代草創期には主に洞窟などで生活していましたが早期になると日本列島各地で竪穴式住居が造られ始めました。
縄文時代には多くの打製石斧が見つかりますが、それらは木を切る道具というよりも、穴を掘る道具です。竪穴式住居は一般的に寒さ対策に優れた構造で、冬場の明け方に放射冷却で地面が凍るのを避ける効果があります。
一方で洞窟の中は年間を通じて 低い温度で一定しているため、まさに天然の冷蔵庫と言えます。 例えば、竜ヶ岩洞の年間平均気温は18℃であり、富士山麓の溶岩洞では 3℃に保たれ洞窟や-4℃~4℃で変化する洞窟など、かなり低い温度になっています。
また土器を用いて煮沸するための炉の跡が多く見つかります。この竪穴式住居は定住生活の証拠と見なすことができ、縄文時代の定住は、土器製作や寒さ対策と関係があると言えます。
また洞窟は落盤は日常的に繰り返され、雨,風,雪による浸水,雨だれ,加えて樹木などの倒壊など岩庇は常に劣化、さらに木の根などによって岩肌に亀裂が入ると,長い年月に雨水による亀裂が放射状に入札落盤の大きな要因になります。
(※また洞内での焚火 さらには地震や土砂崩れによる二次的な影響によって落盤に拍車がかかります。)
火山活動や地震なども相まって山崩れのような崩壊現象,その土圧によって天井が剥落する場合が多く,巨岩が落下する場合もあり、閉じ込められたら逃げ場のない洞窟の暮らしから、より自然外圧に適応するために平坦地に住居を設けたのも一つの理由かもしれません。
■洞窟であれ、竪穴式住居であれ定住生活への移行が行われた縄文時代。
それは集団として住み、役割が明瞭化したから
日本における洞穴遺跡は 681ヵ所以上が認められ、 そのうち縄文時代草創期の遺物が出土する洞穴遺跡は 50か所、最も多くの洞穴遺跡を利用するのは約8 ,000年前頃の縄文時代早期押型文土器の段階です。何故縄文時代草創期の段階と比べたら早期の段階は多いのでしょうか。
一つは移動生活ないし半定住生活から定住生活へと共に遺跡数の増大から人口増加したこと、二つは定住化に伴い集落,漁携拠点,狩猟場,植物質食料の採取場といった役割の明瞭化したことから,大所帯の集団は開地遺跡を拠点として洞穴遺跡をキャンプ的な場ないしは葬送の場として大いに利用していったことが推定されます。
また竪穴式住居が集まる集落では、住居があり、その内側に貯蔵穴があり、真ん中には広場が配置(千葉県側の場合は、真ん中が広場、神奈川県などの西関東や山梨県などの中部地方では、環状集落の真ん中にお墓が作られている)された環状集落というものが展開さています。
集落の機能が複雑化し集団間の社会がより発達したことが分かります。
総じて外圧適応も新しい土地(未知)への開拓も縄文の集団の力があったからこそなしえたのかもしれませんね!
次回以降も遺跡や集落の痕跡から縄文ネットワークを解明していきたいと思います♪
引用:静岡県浜松市竜ヶ岩洞HP(https://www.doukutu.co.jp/science/science8.php)
渡部森哉:人類の定住に関する考察(https://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/item/ronshu7_02%20Watanabe.pdf)
白石浩之:日本における洞穴遺跡の研究―縄文時代草創期を中心 として一(http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_01F/01__44F/01__44_1.pdf)
山田康弘:なぜ環状集落は東日本で発達した?縄文時代の「都市計画」概説・縄文時代~その最新常識(8)縄文時代の人々の集落(https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3028)
投稿者 hanada : 2021年10月29日 TweetList
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