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2010年02月12日

「贈与」に何を学ぶべきか!~4.贈与か、はたまた交易か?

こんにちは。どちらかと言えば縄文系顔のカッピカピです。 😀
『「贈与」に何を学ぶべきか!』シリーズの第4弾です
前回の、サティさんの投稿で、集団間、特に巨大集落同士の間には、同類緊張圧力が存在し、何らかの交流が行われてた可能性が高い、ということが分かりました。
そこで、第4回では、集団間で行われていた交流が、果たして『交易』だったなのか、それとも『贈与』だったのかを考える上で非常に参考になる投稿を、るいネットの記事から紹介したいと思います。
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それでは、るいネットより「黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか①,②」を紹介します
                     
  黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか①  

日本列島日本海側を中心に一部シベリア東部おいて多方面、広域に広がる黒曜石や翡翠や琥珀の存在は、当時の各集団が何らかの交流関係にあったことの証左であると思われる。
これらは既に三内丸山遺跡にも(4500年前から3000年前)同時代の他の遺跡でも確認されており、かつ少なくとも三内丸山では上記のものは採掘できない事から、少なくともこの時代では、既に他集団どうしの交流が存在したと類推できる。(つまり同類圧力が存在したということである)
さて、この交流のあり方が贈与なのか、交易なのかが次の問題である。NHKでは交易と断定されている様である。
またこの掲示板でも、それぞれの用語がやや曖昧に使われている様である。
しかし先ず私は贈与と交易とは全く性格が異なるものであり、両者は明確に区分されなければならないと思う。
未開民族の調査によれば、いくつかの部族が(一方的)贈与という習慣を持つ。そして送られるものは、その部族にとって、最高に価値あるものと認められているものである。この贈与においては直接的な反対給付は要求されない、つまり交換や交易ではない。
この習慣はおそらく部族間の友好関係を示すものであろう。しかもおそらく潜在的には緊張関係を孕んであり(全くの同胞的関係であれば、おそらくわざわざ贈与という行為を取らなかったであろう)、そのために何がしかの友好の意思を示す必要があったのではないだろうか。だからこそ逆に日常的必需品ではなく、価値の高いものがその対象になったのではないだろうか?

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                    ◆黒曜石の分布
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                    ◆翡翠の分布
画像は『ブナ林と世界史』からお借りしました。
  黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②  

さて次の問題は、この時代の上記の貴重品が広範に広がっていたのは、贈与によるものか、交易によるものかどちらなのか、である。
結論から言えば私は「贈与」によるものであると思う。
何故なら、まずこれだけの広域かつ多方面の広がりからみて、交易である事は考えにくい。何故ならば上記の物品(原石)が採掘できる場所は限られており、かつ仮に交易であれば、一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずである。つまりこれだけの広域の広がりを説明できない。
逆に贈与であれば、潜在的な緊張関係のもとでかつ友好の意思を多方面に示す必要性が高く、広域に渡ることが説明がつきやすい。
もう一つの理由は原始共同体は自給性が非常に高い事による。交易するということは、他の部族に、自らの生活条件及び生存条件の一部を依存する事を意味する。これは,自給度の高い歴史を積み重ねてきた共同体集団からは、極めて出てきにくい発想である。
 その意味で、私は交易とは自ら生活に必要な生産活動を行わない、遡っても略奪部族、ひいてはその後の支配階級の需要に端を発する様に思われる。また実際交易を後の時代に中心的に担っていたのは、周辺に追いやられた、遊牧部族や海洋部族でその最初の姿は、盗賊や海賊的行為によって得た品の売却であった様である。(つまり半略奪、半交易)
 もし当時の日本列島に少数ながら略奪性の高い部族がおり、それが略奪した品と引き換えに生活上の必需品の一部を得ていたとすれば、交易であるという仮設も成立しうる。しかし私の現在知る知識の範囲内では、そのような部族の存在は確認できていない。
 上記の理由より交易の可能性は極めて少ないと思われる。かつ上記の類推より当時の集団間の関係がおぼろげながら浮かび上がってくる。
 逆に先日のNHK番組が何をもって「交易説」を唱えているのか、その根拠が知りたい。何か明確な根拠があるのであろうか?

                     
・・・・ 😛
 上記の記事では、贈与であることの根拠として、
①交易であれば、特定の部族間同士のやり取りになるはずであり、広域の広がりを説明することができない 
②逆に贈与であれば、友好の意思を多方面に示す必要性が高く、広域にわたることの説明がつきやすい
③交易するということは、他の部族に、自らの生活条件を及び生存条件の一部を依存することを意味するが、これは、自給度の高い共同体集団からは出てきにくい発想である
④自らの生活に必要な生産活動を行わない略奪部族が存在したならば、交易であるという仮説も成り立つが、そのような部族の存在は確認できていない
の4点が挙げられています。また贈与は友好の意思を示すためのものであり、そのため日常的必需品ではなく、価値の高いものが贈与の対象になる、ということも贈与説の根拠になると思います。
 また、交易とは、その行為によって、利益を得る行為であり、その行為の裏には必ず「だましの原理」(価値の低いものを高く見せて、その利鞘を得ること)が働きます。もしも、そのような行為が行われ、「だましの原理」が多用されていれば、世界四大文明と同様に、どこかで巨大な権力が誕生し、滅亡と興隆を繰り返したことでしょう。縄文時代が約1万年という長い期間続いたことは、縄文人の間にそのような権力争いはなく、贈与という行為で、縄文人がお互いに友好関係を築こうとした証ではないでしょうか。

投稿者 hi-ro : 2010年02月12日 List  

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コメント

うららさ~ん
『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり――薩摩藩 隠された金脈――』(大江修造著 アスキー新書 2010年)なんちゅう本を読んどったところです。
米軍基地は虫歯かもね。
“神”の道具であったカネが、“欲望”に支配されるようになったプロセスを考察中であります。

投稿者 タツ : 2010年4月29日 20:34

>明治維新のきっかけとなった黒船来航の表向きの目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。
私も黒船襲来の本質は、上記のような日本からの冨の収奪だと考えています。その後の近代化と市場化の流れを見れば歴然としていますね。
騙しと脅しの市場の原理を使って、本源気質の色濃く残る日本より、収奪せしめようとする行為であることは推測できます。
この手法を使って全世界の後進国から収奪を繰り返し、冨の集積を行ったのが欧米の貴族階級です。
そういう意味で江戸時代は、非常に安定した社会だと思われます。

投稿者 kon : 2010年5月1日 23:55

タツさん
いつもながら記事の内容に沿ったコメントありがとうございます。
思うのですが、「武士は高潔な存在」、それにくらべて、「カネとは卑しいもの」という固定観念が根本問題なんではないでしょうか?
だって、時代は変わっているわけで、豊かになり=余裕ができて、人口も増えて、(国内)交易も活発になって、いろんなことを知りたいという欲求も出てくる(国学や蘭学、儒学へのアプローチ)。
で、そういう社会活動の中ではカネも必要品なんだと思います。高潔・下劣という価値観念抜きで、必要か否かと視点だけでみると必要だったと。
だとしたら、その必要品をうまくコントロールする術を国家≒幕府自らが真正面から取組んで確立していけば、幕藩体制は緩やかに時代に沿って変化していけたかもな~、とか思います。

投稿者 うらら : 2010年5月3日 11:25

konさん
コメントありがとうございます。
「鎖国」ってスゴイ思い切ったシステムですよね。
家康が遠い欧米の状況をどこまで意識していたのかはわかりませんが、少なくとも、近くの朝鮮半島にすら近づかず、まして組みしようともしなかった。ひたすら閉じた。このあたりは、「泣くまで待とう」の家康ならではの賢明な防衛策だと思います。なので江戸時代は安定した。
とはいえ、すでに開国して150年、市場経済の雄となり、貿易も金融も盛んな現在、鎖国時代に戻ろう!というのはあまりにも非現実的です。
結局、自由経済の美名を捨てて、国家がどこまで関与するのか、が問われるのではないか、と思います。

投稿者 うらら : 2010年5月3日 11:34

「武士は食わねど高楊枝」この言葉の持つ本質がわかりました。(^^)
ただ、お金=悪とか商売は騙しという価値観はすでに中世にできていたようで、その意味では商人VS武士の間でのお金を巡る騙し合い、すれ違いの根はかなり深いように思います。
その商人ですら、稼いでも稼いでも徳政令などで御破算にされる。江戸の商人や町人が進んで消費体質になった背景にはそんなお金の儚さもあったようで・・・。
いずれにしても国家はそのバランスを見ながら右へ、左へと舵取りをしていたようですね。その意味で徳川のとった金融政策は現在のようにお金持ちの為だけの政策ではなかったようです。その1点をとっても優れた政治だったのでしょう。

投稿者 tano : 2010年5月7日 00:11

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