官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史2 |
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2009年10月09日
縄文から流れる日本人の本源性の中身とは?-2
くまなさんに引き続き、「縄文から流れる日本人の本源性の中身とは?」パート2です 😀
経済破局が刻一刻と近づいてきていますが、現在の「充足・安定・保守」の潮流(参考記事:るいネット「潮流9:経済破局を突き抜けてゆく充足・安定・保守の潮流」を踏まえ、今後の社会どうなる を考える上で参考になりそうな記事を見つけたのでご紹介します
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るいネット『【充足可能性の実現】を採取部族に学ぶ』より引用しました。
>’70年、工業生産の発展によって、ほぼ貧困が消滅し、豊かさが実現された。この豊かさの実現=生存圧力の弛緩は、生物が経験したことのない全く新たな事態である。但し、人類は1万数千年前、飢餓から解き放たれた採取部族の時代に、一度、これに近い状態を経験している。(るいネット:「潮流3:’70年、豊かさの実現と充足志向」)
採取時代の社会状況については、実現論に詳しい。
>外圧が低下すると集団統合力が低下し、規範収束力も低下してゆく。同時に、外圧の低下につれて解脱収束(中心は性充足の欠乏)が強まってゆく。更に、集団規模が拡大したこともあいまって、原モグラ以来1億年に亙って踏襲してきた首雄集中婚を維持することが困難になっていった。こうして約1万年前、人類の雌雄(婚姻)関係は劇的に変化してゆくことになったが、豊かな山野や海辺に進出して木の実などの採集や漁労に転じた採集生産の部族と、従来通り獲物の豊かな森林で狩猟を続けた狩猟生産の部族では、全く異なる婚姻規範を形成する。
>東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。
>何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。
~実現論より~
【外圧低下】⇒【充足思考・安定志向】の一方で、【集団統合力低下+規範収束力低下+解脱収束】と言う問題へと陥った採取部族だが、総偶婚と言う新しい婚姻システムを形成することで、性闘争と自我回路の完全封鎖を成し遂げ、集団の成員全ての充足(期待・応合充足)と集団統合力の再生+集団活力の上昇を実現した。
採取部族に見られる、この実現志向こそ、リンクで述べられている「充足状況では、無意識に近い弱い実現志向しか生起しないが、その実現可能性は大きい」と言うことの歴史的傍証であると言えるだろう。
採取部族が実現可能性を開くことが出来たのは、「(期待・応望の)充足を更に高める方向」へと収束したことによる。
現代社会も採取部族に同じく【生存圧力の消滅=外圧低下】⇒【充足思考・安定志向】の意識潮流下にある一方で、政治・経済・環境・家庭・教育etc・・・多くの社会課題・集団課題に直面しているが、これらの社会問題はマスコミによる共認支配と旧観念の垂れ流しによって出口を塞がれている。
更に、マスコミが流布する「目先の」充足・安定基調によって、人々は(問題の突破の先に得られる)「本質的な」充足・安定追求へと向かわず、目先的充足・安定へと流れている。この目先収束の意識が社会問題の解決を更に困難にしている。
しかし、底流に流れる「大きい実現可能性を秘めた充足思考・安定思考」は確かなものであり、その実現可能性の扉を開くことが出来れば、(最先端のドル・米債暴落→市場崩壊の問題も含めて)あらゆる社会問題を突破していくことは可能である。
そう言う意味で、同様の状況下の中で充足可能性へと収束し、社会・集団の統合と皆の充足を実現した採取部族に学ぶべき内容は非常に多いと感じる。
採取部族に学んで我々が成すべきは(社会の「改革や変革」ではなく)「皆の(本質的な)充足」を実現する為の事実追求と可能性の提示であろう。
「潮流3:’70年豊かさの実現と充足志向」を読み、人々の意識潮流の底流に流れる「大きい実現可能性を秘めた充足・安定志向」を対象化した充足可能性を提示し、広めることこそ、新しい時代を実現する突破口であると認識した。
~るいネット「【充足可能性の実現】を採取部族に学ぶ」より~
現在と同じ、”【生存圧力の消滅=外圧低下】⇒【充足思考・安定志向】の意識潮流下”にあるとはいえ、採取時代と今では当然外圧状況は同じではありません。
再び流れ始めた人々の意識潮流の底流に流れる「実現可能性を秘めた充足・安定志向」!
その可能性を実現させるためには、それに気づいた人たちから可能性を示す事実を提示し、広めていくことが必要なんですね
これからも可能性の発信続けていきます
投稿者 pingu : 2009年10月09日 TweetList
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コメント
投稿者 ken : 2009年12月8日 00:05
日本の気候状況のところで、引用部分に
>④鈴木氏は、複数の史料に残された干ばつや霧雨の記録から、「日本の寒冷は事実であったように思われる」とし、
>⑥「十世紀には温暖が東国の生産力を高め」、西日本では干ばつがその前後の世紀に比べて頻発したとしています。
とあるのですが、干ばつと寒冷、温暖との関係が良くわかりません。
特に④で、干ばつと霧雨から寒冷に結びつく論理がはっきりしません。鈴木氏の論理は合っているのでしょうか?
投稿者 たかし : 2009年12月8日 22:51
皆さん始めまして黒潮アートギャラリーを運営しているマーキーといいます。
イオマンテに関してですが、現在見る事の出来る1920年代のフィルムを見ますと、
まず今から始まるイオマンテの儀式への祈りから始まり、次に3日3晩続くとも言われる踊りが始まります。
その後女達の歌う唄と手拍子の中で数々の習わしを経て子熊がカムイモシリに送られます。
その後、また3日3晩続くといわれる踊りが始まります。
踊りが終わると次にまたカムイノミが行われ、ユーカラ{英雄叙事詩}が興じられます。
この様にイオマンテの儀式において、祈りを中心とした厳かな儀式とシャーマニックな踊る儀式とユーカラを拍子に合わせて興じる儀式というように3つの儀式方式が見受けられます。
この事からしても元々北海道にある文化とオホーツク文化、擦紋文化はどれも共存し交じり合っていると思います。
もちろんトーテミズムを中心とした信仰もユーカラによる神話世界も確立していた事から厳密な婚姻関係を決めるクランは存在していたと思います。
前に知床斜里へアイヌ民族の版画家でリーダー的存在でもある結城幸司さんと木彫り作家の早坂賀道さんと一緒にオホーツク文化の遺跡後へ呼ばれていった事があるのですが、博士曰く1000人規模の集落、いや都市とも言える遺跡でした。確かに100を超えるオホーツク文化の住居跡、熊を送った痕跡、どれをとっても規模の大きなものでした。
これと対等に文化を混じらせた擦紋文化の大きさも伺えます。
曽我氏とアイヌ民族の関係性を調べていくのも面白い視点かと思います。
投稿者 黒潮アートギャラリー : 2009年12月11日 02:46
>Kenさん
丁寧なコメント、ありがとうございます。
>この外の文化を受け入れて自らの文化の中に吸収していくというスタイルは縄文人の特徴でもあり、その後の日本人の基本的な受け入れ体質と同質のものだと思います。
同感です。
このシリーズを通して、現日本人の基礎をなす人々の、極めて高度な同化能力をあきらかにしていきましょう。
投稿者 naoto : 2009年12月11日 21:11
>たかしさん
引用文そのものが抜粋となっているので、鈴木氏の論理がどのようなものかは、はっきりと確認できていません。
【参考文献】は鈴木秀夫、二〇〇〇、『気候変化と人間―一万年の歴史―』、大明堂、四七四頁だそうです。
たかしさんに検証してもらいたいところです。
(無茶振りですね¥^^ゞ)
投稿者 naoto : 2009年12月11日 21:22
>マーキーさん
イオマンテに関する具体的なコメントありがとうございます。
ネットや書籍に加え、体験された事例は、追求を進める上での強力な武器となります。
>トーテミズムを中心とした信仰もユーカラによる神話世界も確立していた事から厳密な婚姻関係を決めるクランは存在していたと思います。
婚姻関係については、私も追及したいテーマのひとつです。
現在、探索中で近々、記事をUPする予定です。
その際も具体事例等をコメントいただけると、心強い限りです。
投稿者 naoto : 2009年12月11日 21:31
オホーツク文化の詳細な報告ありがとうございます。
オホーツク文化はすでに中国との交流で鉄や工具などの高度な文化を擁していました。アイヌ人はその文化に触れて奪うのではなく接触していったことが伺えます。
アイヌ人はオホーツク文化の影響を多分に受けてその後のアイヌ文化に取り込んで行ったようですね。また、オホーツク文化は明らかな外来文化でもあり、新モンゴロイドの形質をもっています。アイヌ人と融合したとしたら、アイヌ人の顔がコーカソイドに似ているというのもこの辺りの混血が原因かもしれません。
最も顕著なのが熊祭りです。これは明らかにオホーツク文化との融合によりアイヌ民族の中に定着していったのではないかと想像します。
この外の文化を受け入れて自らの文化の中に吸収していくというスタイルは縄文人の特徴でもあり、その後の日本人の基本的な受け入れ体質と同質のものだと思います。
オホーツク文化を吸収し自らの文化にしていった。
その意味ではこの事実もアイヌ人=縄文人の末裔という根拠の一つにもなりそうです。