学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(前半) |
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2007年10月03日
学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(後半)
千田先生の論文の続きです。縄文社会の自然との関わりを現代と比較して書いています。
>「こうした脈絡で、自然の中で生活していた縄文社会が注目されるのである。確かにドイツ歴史学派やアダム・スミスなどは、こういう歴史の起点を「未開状態」とした。例えば、スミスは、「分業がなく、交換がまれにしかおこなわれず、各人がすべてのものを自分で調達するという、社会の未開状態」とみた。だが、決してこの時代は未開などではなく、見事な自然調和文化が花開いていたのである。欲望が社会の掟、文化によって規制され、日常生活に必要なものが生産され、交換されていたのであった。
もちろん、自然の中で生きるということは、自然環境に生活を大きく影響されることである。
>縄文社会は絶えず食糧危機に直面し、不安に満ち満ちた社会であった。生易しい自然調和などではなかった。自然と調和するとは、人間が自らも自然の一部として、厳しい自然の法則に敬意をはらうということなのである。それは、数十万年の後に、ようやく人類が手にした「脅威ある自然との折り合いのついた」生活であった。
>そして、こうした自然の脅威にさらされている点では、縄文時代も現代も同じである。よく現代日本社会には「安全神話」が崩壊したか否かなどが議論されるが、宇宙的・地球的視野からみれば、我々は依然として自然の厳しい脅威にさらされているのである。貧富差緩和と治安強化で「安心」は維持されても、自然の脅威を克服できる社会はとうてい実現維持などできないのである。
縄文時代を自然と折り合いが付いた(完成された)文化であると著者は語っています。さらに自然を克服できる社会は未来永劫できない。人間の傲慢であると。
現代にあっても自然の脅威は決して減っていません。現代人でも大きな地震や台風の時にさらされる感覚です。大きく見れば温暖化であってもその原因の一部を人類が作ったか否かすら判っておらず、自然の脅威の一つに変わりはないのです。
続きは押してからお読み下さい。↓
>縄文時代では、自然への脅威にさらされつつ、人々は日々宗教的敬虔さで物事を処するようになっていった。自然に畏敬をはらう精神文化が展開していったのである。例えば、最近発見された五千年前の三内丸山遺跡は、自然の中に生きる厳しさから生まれた知恵と、幅広い連帯・互助の心と、自然の脅威への敬虔な祈りとにつつまれた自然世界を示してくれる。非富の文化が自然に包まれて展開した。
>この非富社会の文化、経済、宗教などは、文化人類学では「未開社会」というが、これはなんとも不届きな用語であり、筆者はこの無神経な用語の使用には強く反対する。レヴィ=ストロースは、「未開民族と言うのは発育の遅れた、あるいは停滞した人々のこといをいうのではない。彼らはいろいろの領域で文明人の成果をはるかに越える発明と創造の精神を示すことができるのだ。
現代人が未開で縄文人が精通していたと単純に対比することは短絡的ではありますが、少なくとも自然の摂理から突破口を学び取るという課題において縄文人の能力と現代人の能力に大きな隔たりがあることは想像できます。
著者は「我々は何を成すべきか」の部分で以下のように展開しています。
>だからこそ、我々は、現在の工業経済社会の「非人間性」・「非自然性」に気づき、美しく厳しい自然の重要性を再認識して、人間もその自然の一部でしかないことを切実に自覚して、 21世紀の「自然の脅威と人間の脆弱さの折り合う社会」の実現をめざすべきであろう。
この自然破壊の根源的原因たる「富を求める欲望」の規制こそが早急に求められているのである。現在の欲望にまみれた社会にあって、その抑制を訴えるだけでは確かに「即効薬」にはならないであろう。現状の経済システムの根源的是非を問わずに「不正な生き方をするほうが有利であり、結局は幸福」であり、「それを裏付けるかのような社会の現実」(前掲プラトン『国家』下、解説、468頁)があるとしても、それでもなお、真理を追究する哲学者=学者は、現実には「不都合な真実」だとしても、それを解明し、声高に提唱する義務があるのである。
私が著者の論説に違和感を感じたのはこの最後の部分です。
どうする?という部分に対する答えが非常に見えにくい。
「富を求める欲望」への規制を行い、現在の経済システムを疑い、不都合であろうとも真理を探究するという部分です。要するに答えの追求が現在のシステムを抑制、否定する部分から始まっているところなのです。
この点は多くのるいネットの佳作投稿の中にその答えがあるように思います。
私権闘争・掠奪闘争をどう止揚・統合するのか?
原基構造の不変部分と可変部分
社会とは、同類闘争空間に他ならない
著者が提起した富とは私有意識の目覚めでありそれらが統合原理になった私権社会の成立そのものです。裏返せば非富社会とは私権社会以前の統合原理の社会であり、縄文時代やそれ以前の人類がどのような統合原理で集団を構成していたかを見ていけば答えは簡単に見つかります。そしてそれが現在、行き詰った社会の答えに繋がるはずです。
必要なのは私権追求に変わる活力源であり、人々の意識を統合する統合原理です。それを共認原理と呼び、課題や役割や評価をみんなで認め合う社会の再構成が一番近しい答えだと思うのです。実際、それが新たな活力源として登場し始めており、求められこそすれ、不都合な真理でもなんでもない点を付け加えておきたいです。
最後に蛇足ですが、富を求める欲望は個人レベルでは既に低下しています。物が売れなくなり、必要以上に富を得ようとする人の数はかなり減っているのは事実ではないでしょうか。千田先生がおっしゃる「富を求める欲望」の規制の必要性は人間の富をめぐる欲望は普遍であり永続的であるという立場にたっておられると思いますが、その点に関してはここ30年の状況を見るにつけ若干の修正が必要になってくると思います。
投稿者 tano : 2007年10月03日 TweetList
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