2007年10月5日

2007年10月05日

縄文時代研究史(2)

◆昭和20、30年代~14C年代測定法の登場による縄文移行期の決着へ 
昭和21年、相沢忠洋による岩宿遺跡の発見や、昭和25年の神奈川県夏島貝塚の発掘などは、静岡県登呂遺跡と並んで、戦後の考古学研究に大きな促進剤となった。
昭和31年に、新潟県本ノ木遺跡の発掘で、尖頭器(石槍)と一緒に縄文土器が見つかったことにより、石器時代から縄文土器への移行が問題となった。山内清男は「両者は同時期のもの。これまで知られなかった縄文文化だ」と主張、芹沢長介は「両者は共存しない。旧石器時代の遺跡に土器が混入しただけだ」だと対立。
35年には、福井洞窟で細石刃が発見され、土器と石器の共存説が有力になったが、30年代後半には、さらに古い「隆起線文土器」の存在が明らかにされている。
 これと並行して、縄文土器の型式学的研究が山内を補強する方向で積極的に深められ、隆起線文→瓜形文→押圧縄文→撚糸文へという「土器の序列」がとりあえず明らかになった。
詳しくは当ブログの「縄文土器体系化の祖、山内先生のお話」を参照下さい!
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投稿者 simasan : 2007年10月05日  

2007年10月05日

縄文時代研究史(1)

◆江戸時代までの縄文研究~神話的解釈から事実解明への転換期
奈良時代の『常陸風土記』には、大串貝塚が巨人に食された、とか、『続日本後紀』(839年)には「出羽国田川郡の西浜に石鏃が天から降ったがこれは神戦のためであろうから、それを鎮めるために当時の東北地方の重鎮、大物忌神社の神階正五位下を従四位下に特進させた」という記述があったり、研究と言うより、神話に近い話が多かったのである。
江戸時代になると、津軽藩は青森県亀ヶ岡式土器の出土を記し、菅江真澄は東北の亀ヶ岡、三内土器を区別して記述。また、田邨省三は、石器と土器との関連、集落地の立地などに言及。
既にこの時代、三内丸山に遺跡があることや、、縄文文化が東北地方にあったことは知られていたのである。
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投稿者 simasan : 2007年10月05日