縄文時代研究史(1) |
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2007年10月05日
縄文時代研究史(2)
◆昭和20、30年代~14C年代測定法の登場による縄文移行期の決着へ
昭和21年、相沢忠洋による岩宿遺跡の発見や、昭和25年の神奈川県夏島貝塚の発掘などは、静岡県登呂遺跡と並んで、戦後の考古学研究に大きな促進剤となった。
昭和31年に、新潟県本ノ木遺跡の発掘で、尖頭器(石槍)と一緒に縄文土器が見つかったことにより、石器時代から縄文土器への移行が問題となった。山内清男は「両者は同時期のもの。これまで知られなかった縄文文化だ」と主張、芹沢長介は「両者は共存しない。旧石器時代の遺跡に土器が混入しただけだ」だと対立。
35年には、福井洞窟で細石刃が発見され、土器と石器の共存説が有力になったが、30年代後半には、さらに古い「隆起線文土器」の存在が明らかにされている。
これと並行して、縄文土器の型式学的研究が山内を補強する方向で積極的に深められ、隆起線文→瓜形文→押圧縄文→撚糸文へという「土器の序列」がとりあえず明らかになった。
詳しくは当ブログの「縄文土器体系化の祖、山内先生のお話」を参照下さい!
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さらに、昭和38年、14C年代測定法の登場により、縄文早期の夏島貝塚が約9000年前という年代を測定。やがて、芹沢長介は、福井洞穴の第Ⅱ層の14C年代が1万2400±350年前、第Ⅲ層が1万2700±500年前とした。
一方、こうした「長期編年説」に対し山内清男や佐藤達雄らは、BC2500年を縄文時代の始期とする持論の「短期編年説」を提唱した。
昭和39年、山内は、磨製石器と土器が日本に先駆けて出現するはずがないとして、このような年代法では「事ごとに日本における文化要素が世界で最も古いことを強弁しなければならなくなるであろう」と主張したのである。
しかし、その後、中国でも1万年前に土器、東ロシアでは1万3千年前に縄文土器に匹敵するものが発見され、現在では、石器時代から縄文時代への移行期を1万2千年前におくことが一般化している。
◆現 在~三内丸山遺跡~縄文研究が飛躍的に前進
平成5年、岐阜県宮ノ前遺跡から、細石器の単純文化層ー無紋土器・北方系細石刃石核・神子柴型尖頭器の地層ー隆起線文土器の地層が発見され、最古の土器と思われた隆起線文土器よりも古い土器が発見された。
以後も、神奈川県寺尾遺跡、相模野No.796遺跡などで、神子柴型尖頭器の地層に「帯状のふちにヘラなどで文様をつけた土器」(「刺突紋土器」「窩文土器」)が発見され、隆起線文土器より古い地層で無紋・刺突紋・窩文土器が見つかったのであった。神子柴型尖頭器はシベリアなどにルーツをもつことから、これらの最古土器が「北からの流れ」に属するものとも言われている。
現在、三内守山遺跡の発見は、従来の縄文研究を飛躍的に前進する契機になりつつある。
平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。
また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
以上、「縄文時代と現代」千田 稔 より抜粋
投稿者 simasan : 2007年10月05日 TweetList
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