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2011年01月27日

シリーズ「南から見た縄文」~予告編

こんばんわ。管理人のtanoです。
毎日寒い日が続いていますが、雪国の方は今年はかなりご苦労されていると思います。
こちら大阪なので、ちょっと寒いだけでもマフラーを巻いてさむがっていますが、基本的には日本で一番暖かい(暑い)ところ、今年の冬は、冬らしい寒さが来て心地よく暮らしています。
さて、当ブログ最近は日本人の起源を多方面から解明するという課題に取り組んでおり、これまでも染色体からの分析がかなり本格的に進んできました。今回もその路線に乗りながらちょっと脱線してシリーズの立ち上げをしていきたいと思います。 🙂
縄文文化は東日本で花開き1万年という長きにおいて採取、漁労の定住文化が継続しました。農業に転換せずに1万年間定住したというのは世界でも稀有な存在で、三内丸山に代表される北の縄文は縄文文化を語る上で避けて通れない、あるいは誰もが注目する地域であり、象徴でもあります。
一方、先のなんでや劇場でほぼ明らかになった縄文文化の起点はどこにあるか?という問いに対しては南方のスンダランドを起点とした南方モンゴロイドの歴史である事がわかってきています。
今回、この縄文ブログで目を付けたのが、その南方文化です。縄文時代は草創期こそ南の縄文遺跡は最古の縄文土器や最古の集落という事で考古学的位置づけは高いものがありますが、縄文前期まで行くとほとんど注目されていない辺境の地になっています。また一説では、縄文時代は西日本は照葉樹林に囲まれ、定住に適さない不毛の地帯とも言われています。果たして実態はどうだったのでしょうか?
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沖縄の海です。今回はこちらへ行ってまいります。(気持ちだけですが・・・・ 😥 )
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さて、南からの縄文、どのように進めていきましょうか?
一説によると6300年前の喜界カルデラ大噴火により九州一体、西日本の一部の地域まで火山灰が堆積し人が住めるような状態になかったという説もあります。九州と火山活動は縄文時代の南を解明する上で明らかにしておきたい内容です。
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またさらに南へ視線を向けると湊川人が発見された沖縄まで前縄文の歴史は繋がっています。近年、湊川人は骨格の解明から縄文人とは別の人種であると排斥された記事がありましたが、沖縄、さらにはもっと南のスンダランドから渡ってきた海洋民の影響を検証しないわけにはいきません。
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↑湊川人の住んでいた洞窟です。
「メレンゲが腐るほど恋をしたい」より借用しました。
九州には現在でもスンダランドが沈み渡来してきたとされるY遺伝子のC1系統が世界でも少数民族として残っています。北海道アイヌでC3が9割ほど残っているのと同様にC1はおそらくは最も古いほうの日本列島への定住者の末裔である可能性が高く、火山灰の降り注ぐ地域であっても脈々と縄文人の生活は継続していた事の証でもあります。
また、西日本、特に北九州は朝鮮半島との距離がわずか数十キロという大陸との玄関口であり、縄文以前、縄文時代、さらにはその後の弥生時代と古来から多くの人が往来した大陸との結節点に位置します。ここが弥生時代になるまで単なる通過点だったとは思えません。縄文時代を通じて何か重要な、特別な地域であった可能性があると思うのです。
三内丸山発掘以降、特に北の縄文が注目され、弥生時代以降の残存度が大きい東北地方は中心地だという見方は確かに一理はありますが、だからこそ、この縄文ブログは縄文を南から見るというテーマにチャレンジしてみたくなりました。
このテーマはどんどん南へ行きますので、最初は南方文化の原点であるスンダランドからシリーズを開始します。その後、中国江南地方、沖縄、奄美、南九州、北九州、四国、中国地方と南から前縄文―縄文時代を俯瞰していきたいと思います。
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そして明らかにしたいのはその後の日本人を形成した因子に南から来た漁労、採取のおおらかな文化がかなりの濃度で影響したのではないか、これが私の問題意識です。
2ヵ月後のスタートになると思いますが、それまでメンバー一同で南を探求しておきたいと思います。プロ野球みたいですが、シリーズの開幕、ぜひお待ち下さい。
それではシリーズ開幕までにこれまでの南から、見た縄文の当ブログでの数々の記事を紹介しておきます。みなさんも御一緒に探求してみてください。
火山活動から日本列島の成り立ちを見る。
火山活動から日本列島の成り立ちをみる~続編
縄文人の故郷、スンダランド
鬼界カルデラの大噴火により、琉球発のネットワークが始まった?
縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか
寒冷化により、まず穀物栽培に転換した
縄文:東西-堅果類食料の違い~生活様式の違い
遺跡分布図から見た生活様式の変遷
琉球の交流の歴史~概要編

投稿者 tano : 2011年01月27日 List  

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