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2011年04月01日

牧畜→遊牧はどのように伝播していったか2

1に続いて、ユーラシアにおける遊牧の伝播の歴史をお送りします。
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本格的な遊牧の展開は、やはり車輌及び騎馬技術の展開を待たなくてはならない。以下は「スキタイと匈奴遊牧の文明」林 俊雄著から。
>5000年前から4000年前 メソポタミアを中心とした地域で、馬に乗った人物を表現した押型と粘土板がいくつか発見されている。騎乗者は馬の尻の上に跨っており、こわごわとして乗っているようで、この段階では口にくわえる銜(はみ)はまだ出現しておらず、牛と同じように鼻輪で制御していた。
>4000年前 馬でも軽快に牽くことのできるスポーク付き車輪の二輪車が登場する。また馬を御する上で重要な銜と銜留め具は、草原地帯(南ロシアや中央アジア)で発見された可能性がある。というのは西アジアでは馬にも当初鼻綱を着けていたのに対して、同じ頃南ロシアや中央アジアでは骨製円盤型銜留め具が実用化されていたからである。同じタイプの銜留め具は草原から東ヨーロッパ、さらにミュケナイ文明のギリシアに伝わったらしい。
>エジプトでは第十八王朝の終わりころ(3400年前)に銜に着け手綱を持つ騎乗者の浮き彫りがある。エーゲ海方面でも3300年前~3200年前の三点の壺に騎乗の図が描かれている。前十世紀になると 西アジアや地中海世界に騎馬を表現した土偶、浮き彫り、絵画などの資料が急増する。
他方、中央アジアの草原地帯でも、遊牧文化圏が拡大していく。
4300年から3000年前、草原地帯にはアンドロノヴァ文化と呼ばれる青銅器文化が展開。チャリオットと呼ばれる馬車を武器に、広域に広がっていった。その背景には激しい寒冷乾燥化という自然環境圧力があったようだ。つまり、豊かさを求めて西方へ、それも限界になると東方へという順番のようだ。
そしてこの影響はついに中国に波及する。寒冷乾燥化現象は、中国甘粛でも同様に認められる。斉家文化と馬家ヨウ文化馬廠類型の時期にあたり、キビ・アワ作が営まれブタの飼育がなされていたが、その後期には牧畜的要素が高まり、ブタに替わってヒツジが増加することが指摘されている。決定的なのは去勢技術の伝播である。朱開溝文化について ニュースサイトより
http://www.china-news.co.jp/node/1492 
>フフホト2日発新華社電によると、中国の考古専門家の発見で、3500年前の内モンゴル自治区のオルドル地区に暮らしていた朱開溝人が動物を去勢する技術を持っていたことが実証された。朱開溝遺跡から出土した大量のブタ、牛、羊などの動物の骨を鑑定した内モンゴル自治区の考古専門家は次のような考えを示した。朱開溝人が当時、大量の家畜を飼育していたばかりでなく、去勢術を利用して動物の繁殖を抑える科学技術も持っていた。
勿論、人種的な交流はもっと早くあったものと思われ、5500年前の紅山文化の碧眼の女神像は、紅山文化がモンゴロイドとコーカソイドの混血文化であることを示唆している。
ただ、西洋の戦車が中国で本格的に展開するのは秦代(2200年前~)となる。

投稿者 staff : 2011年04月01日 List  

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コメント

はじめまして。
百済人は今の朝鮮人とは全く別民族ですよね。百済人は倭人系です。今の朝鮮人は、小アジアのトルコ人のようなものです。朝鮮から倭人の一派が広東あたりから来た集団と同じくらいの人数が来たのは否定しませんけど、朝鮮半島に朝鮮人よりも先に移住したのが倭人との事実を考古学者も歴史学者も認めない限り、真実は見えないように思えます。任那日本府も認めないような状況では無理ですね。

投稿者 のんこ : 2011年8月27日 04:04

のんこさん、応援ありがとうございます。
私たちは、学会や定説にとらわれることなく事実を追及しています。今回鳥越氏の『古代朝鮮と倭族~神話解読と現地踏査~』をもとにして事実追及をすることにより、新たな可能性が広がったと感じました。
いつの日か、学会も認めざるをえない時が来ると信じています。
のんこさん、これからもぜひ一緒に追及してくださいね♪

投稿者 はるちゃん : 2011年8月31日 22:54

倭=猶太
漢書」の「地理誌」には、「師古曰 倭音一戈  反今猶有倭国」とあります。
これは、古えの師が云うには、倭の音に関しては一つの論争があった、倭国有るところ、猶の音を反す。という意味です。
この場合の「猶」は副詞の「なお」ではなく、ユダのユを表わす名詞なのです。
それが示唆するのは、猶太と表記するのでは、発音が違うから、ユダ王国に関して表記する場合には、倭の音の表記を用いて欲しいと、列島側が申し入れた
”委ねる”人 まさに 倭です

投稿者 hoihoi : 2011年9月2日 12:56

弓月国から開封に。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%B0%81%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA
そして先遣隊は日本を目指した。数百年の年月で朝鮮半島から渡った人もいるでしょう。そこに落ち着いた人もいるかもしれません。先日新たに新羅は倭の属国であったと言う文書が中国で発見されました。白村江で百済を助けたのも同族だからでしょう。そして難民も..
そして倭は朝鮮半島から撤退。朝鮮半島の倭人は消滅。
当然数百年住んでいれば現地化し 日本で作られた神社もそれらを懐かしんで名づけた。
日本の古墳の形はユダヤのシンボル壺の形
勾玉の形のカンマはヘブライ語で神

投稿者 hoihoi : 2011年9月2日 13:26

単純に考えれば出自を隠す必要はまったくありません。別に朝鮮半島が汚いと言うわけですのでむしろ出自を明かすのは名誉であり誇りです。
そして朝鮮半島は単なる通り道であったでしょう。元来半島は大陸から追われて追い詰められたところが半島来るわけです。
もちろんイタリアには当てはまりませんが。。

投稿者 hoihoi : 2011年9月2日 13:42

日本古代史の中で 石渡信一郎&林順治氏の 『倭韓交差王朝説』は
きわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説 扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
『倭韓交差王朝説』とは
(1)崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
(2)5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は 崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
(3)昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
(4)応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
(5)継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
(6)欽明は応神の息子で 531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
(7)蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
(8)蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。 
(9)馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
(10)天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で 天武は古人大兄と同一人物。
以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、
内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、
石渡教授が論理的に証明された真実です。
ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。
そしてこの『倭韓交差王朝説』で 日本史の教科書は書きかえられるべきです。
私の子共もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください
どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??

投稿者 むらかみからむ : 2011年9月19日 23:06

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