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牧畜→遊牧はどのように伝播していったか2

1に続いて、ユーラシアにおける遊牧の伝播の歴史をお送りします。
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本格的な遊牧の展開は、やはり車輌及び騎馬技術の展開を待たなくてはならない。以下は「スキタイと匈奴遊牧の文明」林 俊雄著から。
>5000年前から4000年前 メソポタミアを中心とした地域で、馬に乗った人物を表現した押型と粘土板がいくつか発見されている。騎乗者は馬の尻の上に跨っており、こわごわとして乗っているようで、この段階では口にくわえる銜(はみ)はまだ出現しておらず、牛と同じように鼻輪で制御していた。
>4000年前 馬でも軽快に牽くことのできるスポーク付き車輪の二輪車が登場する。また馬を御する上で重要な銜と銜留め具は、草原地帯(南ロシアや中央アジア)で発見された可能性がある。というのは西アジアでは馬にも当初鼻綱を着けていたのに対して、同じ頃南ロシアや中央アジアでは骨製円盤型銜留め具が実用化されていたからである。同じタイプの銜留め具は草原から東ヨーロッパ、さらにミュケナイ文明のギリシアに伝わったらしい。
>エジプトでは第十八王朝の終わりころ(3400年前)に銜に着け手綱を持つ騎乗者の浮き彫りがある。エーゲ海方面でも3300年前~3200年前の三点の壺に騎乗の図が描かれている。前十世紀になると 西アジアや地中海世界に騎馬を表現した土偶、浮き彫り、絵画などの資料が急増する。
他方、中央アジアの草原地帯でも、遊牧文化圏が拡大していく。
4300年から3000年前、草原地帯にはアンドロノヴァ文化と呼ばれる青銅器文化が展開。チャリオットと呼ばれる馬車を武器に、広域に広がっていった。その背景には激しい寒冷乾燥化という自然環境圧力があったようだ。つまり、豊かさを求めて西方へ、それも限界になると東方へという順番のようだ。
そしてこの影響はついに中国に波及する。寒冷乾燥化現象は、中国甘粛でも同様に認められる。斉家文化と馬家ヨウ文化馬廠類型の時期にあたり、キビ・アワ作が営まれブタの飼育がなされていたが、その後期には牧畜的要素が高まり、ブタに替わってヒツジが増加することが指摘されている。決定的なのは去勢技術の伝播である。朱開溝文化について ニュースサイトより
http://www.china-news.co.jp/node/1492 [2] 
>フフホト2日発新華社電によると、中国の考古専門家の発見で、3500年前の内モンゴル自治区のオルドル地区に暮らしていた朱開溝人が動物を去勢する技術を持っていたことが実証された。朱開溝遺跡から出土した大量のブタ、牛、羊などの動物の骨を鑑定した内モンゴル自治区の考古専門家は次のような考えを示した。朱開溝人が当時、大量の家畜を飼育していたばかりでなく、去勢術を利用して動物の繁殖を抑える科学技術も持っていた。
勿論、人種的な交流はもっと早くあったものと思われ、5500年前の紅山文化の碧眼の女神像は、紅山文化がモンゴロイドとコーカソイドの混血文化であることを示唆している。
ただ、西洋の戦車が中国で本格的に展開するのは秦代(2200年前~)となる。

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