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2011年04月11日

シリーズ「人類の部族移動」その4~中国文明とは何か

「中国文明とは何か」の一つの答えを人類の部族移動から考えると
中国文明を歴史の教科書的に言うと、「中国は、漢民族が担い、5千年の歴史を持ち世界文明の中心(中華思想)で繁栄をしてきた。」となるが人類の部族移動の史実を読み解くと、中国は、母系の農耕文化をもった原中国人(南方モンゴロイド:O1,O2)と支配層としての新モンゴロイド(トルコ族、モンゴル族、ツングース族:O3)の民族集合体であり、そして新モンゴロイド間の覇権争いの歴史であったといえる。
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「’10年末なんで屋劇場レポート5~中国文明の起源」より

● 中国の初期農耕文化の担い手は原中国人(O1、O2)
原中国人(スンダランド発のO1、O2が主体の元海洋民)は母系の農耕文化を開花させるが、次第にモンゴル高原の新モンゴロイドO3が南下して文化的影響を与えるようになる。
9000年前(or8500年前)に長江下流域で彭頭山文化(稲の栽培跡)が興り、河姆渡文化、大渓文化(7000~5200年前)につながり、黄河中流域で粟の耕作やブタの飼育を中心とした裴李崗文化、及び後李文化が登場し、仰韶文化(~5000年前)、大ブン口文化(6300~4600年前)へとつながっていく。
この時期には、新モンゴロイド(トルコ族、モンゴル族、ツングース族)も遊牧を営んでいたと考えられる。

8000年前に中国が西方の影響を受けた史実と古代中国文明についての記事を紹介します
【参考記事】
中国は西方文化の影響を既に8000年前から受けている~中国の原点は西方にあり
中国における新石器文化概要3
中国における新石器文化概要4
中国における新石器文化概要5

●新モンゴロイドの南下とチベット族の侵入によって母系から父系へ転換
5500年~5000年前は寒冷・乾燥化の時期であり、父系氏族社会への過渡期だと言われており、黄河流域と長江流域で防御性の高い城堡が出現した。これは新モンゴロイド(トルコ族、モンゴル族、ツングース族)の南下による影響及び、タリム盆地からチベット高原に進出してきた印欧語族の遊牧部族によって押し出されて、黄河上流へ進出してきたチベット族の影響と考えられる。
黄河中下流域の龍山文化(4800年前~4000年前)にはモンゴル族の影響が、紅山文化(5400年前~4300年前)にはツングース族の影響が、黄河上流域の馬家窯文化(~4700年前)、長江上流域の三星堆文化(5000年前~3000年前)にはチベット族の影響が考えられる。
こうして、一方では父系転換と私有制が強まり、他方では、戦争圧力が強まる中、いわゆる中原地域において夏→殷→周の王朝が誕生し、中国私権文明の歴史が幕を開けることになる。

(殷時代の西方から伝わったと思われる戦闘用車馬)
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写真は殷墟博物館の車馬坑。こちらからお借りしました。
中国が父系性に転換する事に関する記事を記載します。
【参考記事】
中国 夏の起源と母系性から父系性への転換
チベット系遊牧民=古代羌族の東進が、中国の母系から父系への転換をもたらした。

●初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争い
夏王朝の主役は、チベット族とする説と、長江流域から北上した南蛮とする説があるが、チベット族は先に長江中流にも進出しており、制覇力となる武力の強さという点からもチベット族とみなして良いだろう。
殷については、夏に服属していたモンゴル族とする説と、西域からやってきたトルコ族とする説がある。3800年前頃の楼蘭の遺跡から、ヨーロッパ系白色人種の特徴を示すミイラが見られることから、白人の影響も無視できないが、中央アジアから起こった戦車の技術を取り入れるのはモンゴル族でもトルコ族でも可能である。むしろ殷が夏の体制をそのまま引き継いでいること、及び殷に起こった漢字の独自性や天信仰から見て、モンゴル族による政権とみるべきであろう。
更に、3100年前になると、殷に服属していた周族(トルコ族orチベット族)が羌族(チベット族)と協力してモンゴル系の殷王朝を滅ぼし、周を建国する。 
殷は羌族を生贄としたといわれるが、初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争いだったということができるであろう。

「夏・殷・周」王朝の参考記事を紹介します。
「夏・殷・周 王朝の特徴と、思想」

● タミル人と弥生人は秦王朝から脱出を図った原中国人の末裔?
続く春秋戦国時代には、江南(呉越)の倭人が難民となって朝鮮や日本へ多数漂着したが、その後の秦王朝(2200年前)の専制政治にあって、日本へ計画的に脱出してきた徐福一派は男女児童3000人、30隻の大船団で最先端の軍備と職工と穀物種を携えて、日本各地に渡来してきたとされ、この計画的な殖民が日本の弥生文化に与えた影響は大きいと思われる。
また長江の最上流からはへインドへ脱出することも可能である。よく日本語とタミル語の親近性が議論されるが、タミル人はこの時期、インド南部に脱出した倭人勢力ではないだろうか?

「タミル語と日本語」及び「徐福伝説」についての参考記事を紹介します。
「日本語のタミル語起源説は本当か?(2)~タミル語と日本語のミッシングリンク」
「徐福伝説について」

● 隋・唐を作った鮮卑
その後の中国は、トルコ族・モンゴル族の混合軍とも言える東湖、柔然、匈奴、突厥、高車、丁零といった騎馬民族の南下圧力に押され続けることになるが、中でも、東湖から分かれた鮮卑はうまく中原に入り込み、漢人の漢を倒して、隋・唐を打ち立てていった。
この隋・唐の時代、日本は頻繁に遣隋使、遣唐使を派遣しており大和朝廷とのつながりも深い(ただし、隋の後の時代は鎖国)。大和朝廷を打ち立てた勢力=天孫族が扶余→初期朝鮮諸国(高句麗、百済、新羅)といったツングース族の一派であることから、鮮卑もツングース系ではないかと考えられる。何より鮮卑という名前が朝鮮北方の鮮卑山に由来していることからも、ツングースの可能性が高いが、鮮卑の元になる東湖がツングースの系譜に連なるのか、疑問な点も多く、この点は継続追求課題とする。

(唐と周辺国の戦争)
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画像は、阿修羅さんのこちらからお借りしました。
中国の歴史にとって非常に重要な「遊牧騎馬民族・国家」に関する参考記事を紹介します。
「スキタイに代表される遊牧民族の侵略は、一貫して東から西への経路を辿っている」
「父系に転換しつつ母系血族を重要視した遊牧騎馬民族『匈奴』」
「【中央アジア】遊牧国家の構造①~特定氏族による統合~
「【中央アジア】遊牧国家の構造②~遊牧社会の階層構成~」
遊牧国家の原型2 ~匈奴・鮮卑~
中国の部族移動の歴史3 ~ 東胡-鮮卑 ~
東胡、モンゴル高原の東方を領域とした狩猟牧畜民族の出自 (1)」
東胡、モンゴル高原の東方を領域とした狩猟牧畜民族の出自 (2)」
東胡、モンゴル高原の東方を領域とした狩猟牧畜民族の出自 (3)」
中国人は、西洋人以上の交渉上手(商売上手)で2重スタンダードを使い分ける民族である。そして西洋ほど個人主義でなく血縁を重視(共同体はまだ存在している)している。
以上の民族気質が作られた理由がわかる様な気がする。
しかし、同じ東洋人と言っても、日本人と中国人の気質は大きく異なっている。
次のシリーズ「人類の部族移動」その5 では、いよいよ日本人について記載します。

投稿者 ryou : 2011年04月11日 List  

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コメント

つまり、日本には冊封国になるメリットは何もなく、日本からわざわざ冊封・朝貢を願い出たとは考えにくいのです。
なるほどです。
確かに中国にとってその当時の日本など脅威でもなんでもなく、国家としての体を成していない段階で冊封・朝貢を結ぶこと自体日本にはないですね。
>中国は日本を冊封体制に組み込み朝貢をさせたかったのではなく、単に中国の勢力の拡大を示す、外交及び内政上の一種のパフォーマンスであったという見方ができます。
上記ともとれますし、私はむしろ北九州一帯がすでに後漢の出先機関だった可能性があると考えます。そう考えると金印は出先機関への出張手当や勤労賞与だったようにも思えます。
なぜ日本に出先機関を持ったかという点については当時朝鮮半島が徐々に動乱になっていたので、それを中国と日本の挟み打ちで支配しようとしたのではないでしょうか?
その意味で中国にとっての日本とは是非とも仲良くしておきたい(手に入れたい)土地だったのだと思います。

投稿者 tano : 2011年9月14日 13:00

随分と勝手な言い分ですね。
日本に属国意識があることが前提で話されていて不愉快極まりない。
その当時の日本はそもそも朝貢という制度自体知らないでやってると思いますが?
中国人の目線からは知りませんが、日本人にとっては縄文時代から日本内で行っていた交流みたいなものの大規模な奴ぐらいの認識だと思いますがね?

投稿者 オロチ : 2011年9月19日 12:08

>日本には冊封国になるメリットは何もなく
日本にいる渡来民(集団)のうち、朝鮮系と中国系という視点から見ても、メリットはないのでしょうか。
また、この頃すでに朝鮮や中国と交易による関係があったと思われますが、その勢力競争という視点からの可能性はありませんか?
金印を手に入れる(渡す)には、それなりの危険を冒すことになります。メリットがないというのは考え難いのではないでしょうか。

投稿者 キムンカムイ : 2011年9月21日 16:09

tanoさん、コメントありがとうございます。
この時代のことは、現在の日本を前提としているため、如何にも日本国のことのように書かれていますが、国家の体を成していないことや、当時の倭族の拡散状況を考えると、
>北九州一帯がすでに後漢の出先機関だった可能性があると考えます。<となると思われます。

投稿者 yoriya : 2011年9月21日 23:53

オロチさん、コメントありがとうございます。
>日本に属国意識があることが前提で話されていて不愉快極まりない。
おそらく、この点が共有できない限り先には進まないのかな?と思われます。
この点については、
『属国意識の源流を辿る2』で以下のように考えています。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/08/001301.html
原発の大事故、さらにそれを受けて誰が考えても脱原発なのに未だに決断をモラトリアムする政府、東電。さらにその上に乗っかり好き勝手な事を発しながら未だにその地位を追われない無能なトップ。それを見て引き摺り下ろす事のできない大衆。これら全て日本の支配者の属国意識と大衆のお上観念という見方で見れば整合し、その根深さに改めて驚きます。
* * * * * * * *
お時間があれば詳細をお読みください。

投稿者 yoriya : 2011年9月22日 00:18

キムンカムイさん、コメントありがとうございます。
>金印を手に入れる(渡す)には、それなりの危険を冒すことになります。メリットがないというのは考え難いのではないでしょうか。
おそらくですが、当時の九州(特に北部)は倭族の領土下にあったと考えられます。
tanoさんも仰っていますが、北九州一帯がすでに後漢の出先機関だった可能性が高いのではないでしょうか。
金印が単に見つかったというだけであって、それを渡す目的ではなく、交易の一環や賞与などとして伝わったのかももしれません。そして後に、金印を受けたと言う歴史が作られた可能性があります。
この辺りは詳細な情報がないので、仮説ということになりますが、整合性が高いような気がします。

投稿者 yoriya : 2011年9月22日 01:24

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