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2011年08月16日

日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史7 中国の朝貢制度とは 

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写真はこちらからお借りしました。
  
    
朝鮮を始め、日本、東南アジア諸国は、近代まで中国に対し朝貢を行うことで戦争を回避し、自国の安全保障を行なってきました。
そして、この朝貢制度により、属国というアジア特有の国家間の序列関係を形成していきました。
 
今回は、中国・アジアに特有な朝貢制度について考えて見たいと思います。
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先ずは、朝貢制度とはどのようなものなのでしょうか。

■朝貢とは
フリー百科事典 ウィキペディアより
朝貢(ちょうこう)は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。
王化思想を基調として周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。四夷から朝貢を受けることは皇帝の徳を示すことと見なされ、内外に向けて政権の正統性を示すことができるので、朝貢には莫大な費用がかかるにもかかわらず歴代中国政権は朝貢を歓迎してきた。
これには、周辺異民族と敵対関係になるよりも、朝貢を受けて回賜を与えたほうが安上がりであるという現実もあった。仮に周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけで、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になる。つまり朝貢は中国政権にとって優れた安全保障システムでもあった。
原則として、朝貢国から送ってきた貢物に対し数倍の価値を持つ回賜が与えられたため、朝貢国にとって利益となる事例が多かった。また朝貢に来る使節の人員に対しても多額の褒賞金が与えられたために費用削減のために朝貢の回数を制限することも行われた。
冊封により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。
漢字文化圏に包含された冊封国からの朝貢は経済的な利益にとどまらず、書物の購入、情報の入手など、社会・文化的な利益も伴った。
宋代においてこのシステムは破綻する。遼に対しては辛うじて上位にたって中華王朝としての面目を保ったものの、金に対しては宋王朝のほうが下位の立場に立って、貢物を差し出す事となった。
元代においては朝貢と言った形式はとられなかったが、明になると再び朝貢形式が採られた。鄭和による大遠征はヨーロッパの大航海時代に先駆けたものであったが、これにより多数の国々からの朝貢を受けることになった。
清代においても、ヨーロッパとは朝貢形式と代わらない感覚で貿易を継続しようとした。その結果はアヘン戦争に始まる一連の進出を招き、中国がヨーロッパの半植民地化する事態を招いた。この結果、朝貢という形式での対外関係は終焉を迎えた。
(以上引用終わり)

  
  
続いて、冊封とはどのようなものなのでしょうか。

■冊封とは
フリー百科事典 ウィキペディアより
冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「属国」の関係)をともなう外交関係の一種
冊封が宗主国側からの行為であるのにたいし、「属国」の側は
・「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上
・「正朔を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)
などを行った。
  
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写真はこちらからお借りしました。  
  
冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。したがって冊封関係を結んだからといって冊封国がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。冊封国の君主の臣下たちはあくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。冊封関係はこの意味で外交支配であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。
冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもある。その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることが出来る。
冊封が行われる中国側の理由には華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は中国に住む者を文化の高い華とし、周辺部に住む者を礼を知らない夷狄と蔑み、峻別する思想である。これに対して王化思想はそれら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。
冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できること、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、当時朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことが出来ることなどがあった。また冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢自体は冊封を受けなくとも行うことが出来、この場合は「蕃客」(蕃夷の客)という扱いになる。また時代が下ると朝貢以外の交易である互市も行われるようになり、これら冊封を受けないで交易のみを行う国を互市国と呼ぶようになる。
(以上引用終わり)

  
  
朝貢制度とは、力の差が歴然と存在している前提において、中国、周辺国双方にとってメリットのある外交制度であり、同時に経済活動でもあったようです。

■朝貢は「安全保障条約」であり、「経済活動~貿易」であった。
~芸文道ブログ~ 『瑞穂国』の記事、
朝貢は、当時の「安全保障条約」
 聖徳太子の時代、日本は、中国に対し朝貢を行っている。授業で「遣隋使」や「遣唐使」という名が出てきたことを記憶している人もいると思うが、それが、朝貢だ。
  
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写真はこちらからお借りしました。
  
  
 朝貢は、差し出す側(進貢)と受ける側(入貢)では、原則、受ける側の方が大きい国だ。日本は、支那王朝に朝貢した時代があれば、渤海や朝鮮から朝貢を受けたこともある。
 従来、朝貢とは、支那大陸の王朝(主として漢民族)の中華思想による外交だ。易姓革命による支那皇帝は天子であり、その徳に周辺国の君主が慕って貢物をし、それに恩賜を与えるというもの。
 表面的には、いかにも「中華」で、鼻持ちならないが、「皇帝の徳」は、体裁でもあり、実の部分は、入貢により、貢物以上の回賜をして、安全の担保とした。したがって、朝貢関係を持とうとしない国は、攻めてくる可能性があると考え、何とか朝貢させようとした。
 つまり、進貢側にとっては、支那皇帝を認めながらも、足元をみながら有利な回賜へ運ぶことも可能であった。聖徳太子は、隋皇帝、煬帝に対し、自らも「天子」と名乗り、煬帝と対等であることを示して、朝貢を行った。当然、周辺国で、そのような態度をとる者はおらず、煬帝は激怒したものの、日本に対し敵対することができなかった。
 明の時代、女真(後の清)は、明と断交状態にあったことから朝貢ができず、自国物産品は朝鮮を通して明へ入れている。朝貢は貿易材料でもあるわけだ。
 このように、力を持っている国は、朝貢を上手く利用していることが分る。
 ただ、これが、支那皇帝により「王」の承認を受け、臣下となる「冊封」では、朝貢もかなりの違いが出てくる。 進貢の判断を独自で決められる国(たとえば日本)の朝貢は、支那皇帝が、ひとりで一番のつもりでいるだけだが、冊封されたとなれば、朝貢は義務付けられた「事大主義」朝貢となる。違う言い方をすれば属国だ。日本が南北朝の時代、あろうことか足利義満が、明から「日本国王」として冊封された。もっともこれも、明に対し有利な取引を引き出す外交手段だったと、いえないこともない。義満の本意が、何処にあったかは分らないが、結果的には、足利家の対明貿易利権が主体で、日本が、属国になるものではなかった。
 これが、戦国時代を経て、文禄の役(倭乱=朝鮮出兵)講和において、明皇帝が豊臣秀吉に「日本国王」の称号を与え、冊封しようとしたが、秀吉は激怒し、再度、兵を朝鮮半島へ送った。足利義満より秀吉の方が、外交姿勢は格上だったということだ。もっとも、明を後ろ盾にしようとした義満に対し、明を征服してしまおうとする秀吉とでは、はじめから、立ち居地が違うのは明白だが。
 明は、西洋の大航海時代以前に、インド洋を渡りケニアまで到達する大航海を成して、その成果で東南アジア諸国などと朝貢関係を増やした。しかし、このときに欧州まで行き、西洋の契約文化に触れることが出来れば、西洋との付き合い方を知り、後の歴史も大きく変わったかもしれない。
明から清となり、長い歳月を経て、朝貢が、冊封国だけになっていく状況にありながらも、清は、朝貢外交の姿勢を変えなかった。しかし、儒教かつ中華思想から派生した安全保障の朝貢外交は、契約文化の西洋では通用しない。西欧列強が、アジア・アフリカを植民地化していく時代に、朝貢感覚で外交を行おうとした清に、軍事力を背景にした外交で条約を結ぶ列強が群がった。その危機感から、欧米列強に対抗すべく、近代化を果たした日本との戦争に清は敗れ、朝鮮は独立し、ここに朝貢も冊封も崩壊した。
(中略、引用終わり)

  
  
朝鮮と日本では、その地理的条件の違いから、中国に対する対応策が異なっていったようです。

るいネット
なぜ今、日本と朝鮮の支配者の属国意識を解明する必要があるか?
例えば朝鮮半島においては李氏朝鮮は明らかに中国の属国になる中で数百年の安定国家を築いたが、その属国意識はどこで生まれたのか?新羅の時代には唐と戦って属国になる事を一度は拒んでいる。見方によっては新羅が滅んで李氏朝鮮が建国する過程で生まれてきた意識とも言える。しかし半島での高句麗、新羅、百済の存続争いの中で中国と手を結んだ国が勝ち抜いたという歴史を見れば、かなり初期段階でその意識が支配者に芽生え、定着していた事が伺える。
一方、日本においては属国意識は朝鮮よりやや見え難い。国家曙の大和朝廷、奈良時代の頃は明らかに強国中国を意識し、朝貢関係を維持する中で国体を作って行ったが、唐の国力の弱体化に併せて国交を減らし、平安時代以降は日本の独自性を作り出していった。日本の外交は中国の時々の状況を見て開いたり、閉じたりした。中国が強い時には国交を開き、弱い時には国交を閉じ、その場合、国交とは侵略を避ける為の戦略の一つであった。
なぜそのような方策をとれたのか?日本は朝鮮と違って海を隔てて東アジアの国々と繋がっている。大国から見れば、辺境の日本と手を結ぶ事で隣国や周辺国を挟む事ができ、隣国からの侵略の脅威を減らすことができ、さらに日本の軍事を使って攻め込ませる事もできる。現在のアメリカや少し前のロシアもそうであったように東アジアの端、日本との連携は地域支配をする上で不可欠なものだったからである。
日本はその地理的優位性から全面的に属国化した朝鮮半島とは、異なる部分をもっていると言える。ある部分では大国の意図を利用し、翻弄する事で有利に外交を進める手法を知っていたーその最たる事例が鎖国政策かもしれない。(鎖国政策と属国意識の関係についてはもう少しミクロに見てからの結論になりますが・・・)
これら朝鮮半島と異なる政治手法は、日本独自のものに見えるが、それとて同じ朝鮮半島から派生した敗者ゆえの属国意識である。その派生系であることは、その後現在にいたる日本の支配者の意識を見ても明らかである。その手法のみに依存し、未だ対等な国家戦略を持つ事ができないのは支配者の深い部分にある敗者故の隷属意識に支配されているからだと説明できるのではないか。

  
  
  
 大和、そして平安時代の遣隋使・遣唐使(894年に中止)までは、日本の支配階級(朝鮮半島の闘争に敗れ日本に渡った新羅、百済、任那の負け組み)の中国に対する外交方針は、朝鮮半島諸国に居た時と同じように、朝貢により中国の属国となる道を選び、戦争を回避していきました。
 その後、中国と陸続きの朝鮮と直接接していない日本では、中国に対するスタンスが変化していきます。遣唐使を中止して以降は、日本は中国との朝貢関係は中止します。
 
 一方朝鮮は、冊封を受け積極的に属国として朝貢を続けていきます。
 これは、大国に接しそれ以外の方法論がないと言う環境であることと共に、例え属国になったとしても自国・民族だけは守るという弱国故の外交方針だったともいえます。
 中国にとっては、騎馬民族を始めとする周辺国との戦争を回避しつつ上位に立つ方策として、冊封、朝貢はメリットがある外交方針であり、周辺国に対し積極的に行なっていきました。
 海を隔てて直接的な脅威ではない日本は、中国にとっては、朝貢に来れば対応しますが、敢えて強制する必要もなかった辺境の国だったのでしょう。
 日本は時々の情勢により、朝貢したり断ったりして、相手を利用しつつ外交しており、完全な属国だったとは言えない状況のようです。
 歴史的に見れば、西洋列強諸国では属国関係ではなく完全征服(国に取り込む)する方法が取られてきましたが、これは西洋諸国は警戒心の塊で相手を信用できない、そうしなければ生き残れないという、完全に共同体社会が破壊された歴史によるものと思われます。
 アジアにおいては共同体社会が完全には破壊されなかったために、中国の歴然とした力の序列を前提として朝貢という国家関係が成立し得たのだと思います。
次回は、朝鮮、日本以外の東南アジア諸国が、大国中国に対しどのように接していったのかをお届けする予定です。

投稿者 sinkawa : 2011年08月16日 List  

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コメント

はじめまして。
おはようございます。
とても 興味深いブログです。
あし@か リンク集に いれさせて下さい。。
宜しくお願い致します。

投稿者 Ren : 2012年4月2日 07:22

私はどんぐりを食品化しようとここ数年関わっています。
縄文の昔、主食的位置を占めて居たどんぐりを再度日本の食文化に復元したいとの思いからです。
それも私の意思以上の何かが私を突き動かしている感じがしてなりません。
思うにどんぐりを良く食すようになって縄文人と同じ考え方・感じ方に変換したのかも知れません。
カタカムナの存在に疑義を抱く人が居ます。
然しそこで訴えている目に見えないが確実にある無限の世界を疑う人は哀れです。
同じ思いの人との連帯を作りたい物です。

投稿者 平賀国雄 : 2013年2月10日 11:12

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