アイヌ民族は縄文人の末裔か?(3) ~「オホーツク文化」~ |
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2009年12月12日
素人の創造シリーズ3~素人と創造
こんにちは、saahです。
これまで2回にわたり「素人の創造」シリーズを紹介してきました。
1回目は主に、
・素人の生み出す最大のもの
・素人が生み出す次の原基的な中身
2回目に
・現代の最大の課題
について明らかにしてきました。
3回目の今日は、「本当の創造は、素人が担ってきた」という事実を紹介します。
これまでも、「素人」とはどういう人のことをいうのか、という点でいろんな解釈をされた方もいると思いますが、今回はその中身、及び素人が作った「真に新しい価値」とは何か、を明らかにしてゆきます。
いつものように先に行く前に応援をお願いします。
以下るいネットより引用
4.本当の創造は、素人が担ってきた(言葉を作ったのも、火を使ったのも、弓矢や舟を作ったのも、栽培や飼育を始めたのも、銅や鉄を精錬したのも、また壁画を描いたり、工芸品を作ってきたのも素人である)。真に偉大な思想(統合観念)を創ったのも素人であって、専門の神官や学者が、真に新しい価値を作り出した例は極めて少ない。実現論も又、素人が創ったものである。
※確かに、全くの新しい思念を明確な言葉として創出できた素人は、ごくごく稀にしかいない。しかし、彼は一貫して素人の立場に立っている(からこそ、創出できたのであり、決して自分を天才などとは思っていない。注:偉い身分である学者に成った時点で、彼は素人ではなくなり、真の創造者の資格を失って終う)。
また、彼の身辺には、彼の創出した言葉に極めて近い潜在思念に基づいて新しい行動をした先駆者(これも素人)、更に彼らの周りには、その様な潜在思念を孕んだ人々(当然素人)が、多数存在している。要するに、これら素人たちの潜在思念が可能性収束したその一つの実現態として、彼の創造物が生まれただけである。
換言すれば、彼は仲間=素人なのであり、仲間=素人が生み出した、有益なものだからこそ、人々が評価し、共認する訳である。従って、大多数の人々が、仲間(の内の誰か)が作り出した言葉を共認し、それに導かれて結集し、闘うことに、何の問題も在りはしない。
※ただ現代、支配観念を使ってしか物を考えることができない人々=インテリは、無視するしかない。既にプロに失望した人々は、ネットに収束しつつある。我々の対象は、潜在思念で物を考える人=観念で特に物を考えたことのない人である。
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プロかアマチュアか、ということではなく、特権階級の立場にいる者か否かという視点でみると、素人とは何かがはっきりしますね。
では、その素人における創造の条件とは何か?
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●潜在思念で物を考える人(=支配観念に囚われない人)は、白紙の様に実現論を吸収してゆくだろう。
●そこまで脱却できていない人も、MLetcでの規範的な認識群によって、徐々に支配観念から脱却してゆくだろう。
●本源志向の理論派や社会派も、かなり強く支配観念に囚われている分だけ厄介だが、いずれは転換してゆくしかない。
☆会議室は、かなり強く支配観念に囚われた、厄介な社会派や理論派の為だけにあるのか?
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以上のように、まずは支配観念に囚われず潜在思念に基づいて行動することが創造の条件だと提起されています。
この辺は詳しくは次回紹介したいと思います。
注)☆「会議室」とは、当シリーズ1回目でも出て来ましたが、るいネットでの議論の為のページのことを指しています。
投稿者 saah : 2009年12月12日 TweetList
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コメント
投稿者 milktea : 2010年2月20日 20:13
初めまして。前編、後編を通じて世界と日本の歴史が通観できて非常に面白かったです。特に、「共認」と「私権」という視点が他には無い歴史観になっているような印象です。
あまり縄文時代に詳しくはないのですが、確かに弥生時代辺りに渡来人が多く渡ってきたことを考えると、純粋に日本人的だったのは縄文になりますね。
折りしも西洋型の市場原理主義が行き詰まっている現在、「本来の人間社会ってどんなものなの?」を確認するためにも、このブログを読んでいこうと思います。
投稿者 Yoshi : 2010年2月20日 20:13
milkteaさんはじめまして。tanoさんといっしょにやっている「怒るでしかし~」といいます。milkteaさんの志向しておられるのは歴史心理学とでもいうのでしょうか。
tanoさんからも紹介があったように、私たちは、人間存在を左右する共認と自我の構造に着目して、歴史分析を試みています。共認はひらたくいえば解り合いたいという欠乏=心理ですね。ところが人間は、この解り合いたい欠乏がうまく充たされないと、イソップの「すっぱい葡萄」のように、分かり合いたいという欠乏を押し殺して、解ってくれない相手がわるいんだ、とか、自分は自分、好きにやればいいんだ、というふうに「我」に固執し始めます。この「自我」>「共認」になると、「共認」が得られないが故の「代償的な共認充足」を欲しがるようになります。それが「おれはこんなにまわりに評価されているんだ」という「地位や名誉」への欠乏であったり、「おれはこんなにいい女をはべらせているんだ」という「異性に対する独占欲」への欠乏であったり、それを表象する「財」へのフェテシズムだったりするのだと思います。そしてこの「地位・名誉・独占物としての女や財」を「私権」と総称しています。
そして、「分かり合い」をいきていた縄文時代から「自我」にもとずいて「私権」を貪ろうとする「文明時代」へと歴史は進んできたわけです。
この「共認」「自我」「私権」というキーワードを使いこなして歴史を考えていくとおもしろいものになるのではないかな、と思いながら、私自身は、歴史の基礎知識の不足もあって、思うような記事がかけないでいます。
milkteaさんの歴史心理学的アプローチに期待しております。これからもよろしくお願いします。
投稿者 怒るでしかし~ : 2010年2月20日 23:46
こんばんわ。よくまとまっていて分かりやすかったです。
特に
>このように日本における私権社会の定着は一筋縄ではいかず、それまでの縄文時代のネットワークを駆使したものが勝者になっていきます。
の部分がもう少し詳しく知りたい!と思いました。
何か参考になる記事があれば教えてください!
投稿者 どきんちゃん : 2010年2月21日 00:41
milkteaさんこんばんわ
>縄文時代にも遊牧に近い生活を余儀なくされていた時代があったようです。その際、もうこれ以上移動は無理という段階で、その老人は泣く泣く置き去りにするしかなかった…
温暖化が始まる前の狩猟生産の時代のことでしょうか?
縄文時代1万年はひとつの時代としてくくるには長すぎるのでしょうね。上記の史実の詳細、出典をまた教えてください。
>わたしが初回立ち上げるシリーズには、縄文後の世界ですが、そこから現代のこの国の人々に認識していただきたいことを、私見として繋げていきたいと考えています。「こんな考え方もあるのか」と…
間に合ってよかったです。
来週からの王権シリーズ期待しております(^^)
投稿者 tano : 2010年2月21日 01:33
yoshiさんありがとうございます。
>あまり縄文時代に詳しくはないのですが、確かに弥生時代辺りに渡来人が多く渡ってきたことを考えると、純粋に日本人的だったのは縄文になりますね。
縄文人は未開人などと現在でも教科書で教えているようですが、このブログを読んでいただけると、未開なのはその後の時代のほうだと気づきます。科学力は開花しましたが逆に人間的には能力を失いながら今日に至っています。
これからの社会は機械では突破できません。人間の能力の見直し、再生が鍵になってくると思います。その意味でも縄文人とはどのような能力を備えていたのかその視点での探求も必要になってきますね。
当ブログにぜひ、ご期待下さい。
投稿者 tano : 2010年2月21日 01:39
怒るでしかし~さんナイスフォローありがとうございます。
>この「共認」「自我」「私権」というキーワードを使いこなして歴史を考えていくとおもしろいものになるのではないかな・・・・
そうですね。これらのキーワードはどの歴史書にも出てこない。縄文ー古代ブログの専売特許としてどんどん使っていきたいと思います。
投稿者 tano : 2010年2月21日 01:41
どきんちゃんさん、ありがとうございます。
何か参考になる記事があれば教えてください!
⇒最近はじめたシリーズ「ポスト近代市場の可能性・・・」を楽しみにしてください。過去記事も含めて以下の投稿に書かれています。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001014.html
投稿者 tano : 2010年2月21日 01:44
怒るでしかし~ さん
はじめまして♪
何分にも不慣れなので、上手く書き上げられる自信はありませんが、心理系のカウンセラーの有資格者としての考えを含ませながら、最後の私見につなげられるよう
頑張ってみたいと思います。よろしくお願いします。
TANOさん
早速ありがとうございました。
コメントにあった出典ですが、わたしの場合、新聞、TV、本、いろいろと目にしながらも、誰がどこで発表したかについて、あまり気に留めずに来てるんです。
情けない…のですが…憶えていないんです。
ごめんなさい
記事に関してですが、最後の私見に辿り着くまで、わたしがどのような立場から(是非・善悪等)記事をかいているか、わからないかもしれません。でも、客観的な視線を保ちながら行ければな、と思っています。
よろしくお願いします。
投稿者 milktea : 2010年2月21日 09:01
>日本は朝鮮半島や中国からの渡来民を受け入れますが、彼らは本国で敗北した負け集団です。
本当は支配なんて必要なく
彼らには、争いをあまり好まないという本能があって
それが穏やかな人間関係を構築しようという
日本の体質になじめたのではないかなと思いました。
分かり合いたいという気持ちがお互いにあると
武力衝突なんて不必要ですね
投稿者 匿名希望 : 2010年4月7日 13:34
こんばんは
しっかり読ませていただきました。
縄文時代にも遊牧に近い生活を余儀なくされていた時代があったようです。その際、もうこれ以上移動は無理という段階で、その老人は泣く泣く置き去りにするしかなかった…
しかし、固定した場所での生活が可能になった時、その老人は守られ、長老として知恵を授け、同時に父系への萌芽を携えるようになったとも言われているようですね。それでも紛争を起こすことなく生活できたというのは、確かに縄文時代は知恵の宝庫だったのだと思います。
わたしが初回立ち上げるシリーズには、縄文後の世界ですが、そこから現代のこの国の人々に認識していただきたいことを、私見として繋げていきたいと考えています。「こんな考え方もあるのか」と…
グローバル化が進んでいるとはいえ、現在の世界は国単位の中で成立しています。それを前提にした考えです。
どうぞよろしくお願いします。