2009年12月22日
2009年12月22日
「稲作伝播は私権社会の引き金か?」3~稲作伝播に見る受け入れ体質
○これまで「稲作伝播は私権社会の引き金か?」シリーズとして
1「寒冷化適応により生み出された農業」
2「縄文人と農耕技術」をご紹介してきました。
シリーズ1では農業を受け入れた自然外圧(寒冷化)状況、シリーズ2では縄文時代後期には採取生産と稲作が共存していた可能性について見てきました。
今回は、縄文から弥生にかけて稲作が九州地方から東日本へ爆発的に広まっていった事情と理由について考察したサイトがありましたので紹介します
応援宜しくお願いします
この写真からも分るように、当時の水田は当然ながら灌漑技術力や知識は低く、一枚の田んぼはせいぜい20~30㎡程度です。またこのころから、雑草の影響を排除するため苗を育て、田植えを行っていたようです。
投稿者 ryujin : 2009年12月22日 Tweet