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「稲作伝播は私権社会の引き金か?」3~稲作伝播に見る受け入れ体質

○これまで「稲作伝播は私権社会の引き金か?」シリーズとして
1「寒冷化適応により生み出された農業」
2「縄文人と農耕技術」をご紹介してきました。
シリーズ1では農業を受け入れた自然外圧(寒冷化)状況、シリーズ2では縄文時代後期には採取生産と稲作が共存していた可能性について見てきました。
今回は、縄文から弥生にかけて稲作が九州地方から東日本へ爆発的に広まっていった事情と理由について考察したサイトがありましたので紹介します
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○紹介記事は、稲作伝播に見る受け入れ体質 1 [2]とその2 [3]、と二つ有りますが長いので、抜粋します。

弥生への移行は、新しい社会関係への移行であると同時に、新しい生産様式(水田稲作)への転換でもある。渡来人がもたらした水田稲作の伝播をたどっていきたい。(参考引用:「日本人はるかな旅5 そして“日本人”が生まれた」)

日本最古の水田稲作は、2600年前の佐賀県唐津市の菜畑遺跡だが、縄文人が直接朝鮮半島から持ち帰った単発的なものと考えられている。日本全土に広がるのは、2400年前渡来人(主に春秋戦国の戦乱を逃れた江南人)によって北部九州にもたらされたのを契機にしている。(中略)後続して流れ着く渡来人や稲作に支えられた人口増殖力の高さから、福岡周辺の平野を埋め尽くし(一部の集団は鹿児島まで到達する)、2300年前には東へと移住を開始する。この頃から戦争で殺された主に渡来系の人骨が、北部九州全域で多数見られるようになる。

2300年前より渡来人は東進を開始し、ほとんど時間差なく中国・近畿、そして名古屋周辺の濃尾平野まで達する。各地の水田適地に核となる弥生ムラを築き、時には縄文系の人々を蹴散らしながら周囲に広がる、さらにここを拠点に広域展開を図るというように飛び地状に拡大していく。(中略)縄文人は新文化に対する警戒(対立)と期待(融合)が入り混じる葛藤を経ながら、次第に弥生文化を構築していった。

渡来人の急速な拡大は濃尾平野でストップする。濃尾平野の東(東日本)は縄文人のおよそ85%が住んでいたとされる縄文系の「牙城」であり、渡来人は容易に入り込むことができなかった。両者のにらみ合いは200年余りも続いた。
 対立の一方でそれを打ち破る新たな動きも始まっていた。東日本の縄文人(主に東北と北陸の集団)は、新たな西方の情勢(渡来人の持ち込んだ稲作技術や戦争、そして渡来人自身と彼らの思想)に並々ならぬ関心をもち、板付集落が成立する頃には既に西日本に視察隊を派遣していた。その後も中部・関東の縄文系集団が、近畿を中心に頻繁に交流していたことも分かっている。

以上1より。

2100年前、突如として東進再開、関東平野に大規模な水田稲作集落(中里遺跡)が出現する。(中略)縄文系の人々が主体で築いた集落であった。(中略)また鏃や武器など戦いの証拠を示す遺物もほとんど出土しないことも特徴で、多数の縄文系の人々が少数の渡来系の人々を平和的に迎え入れた様子が伺える。そして2000年前には青森県津軽平野にまで稲作が伝播する。しかし東日本は、稲作への依存度・定着度、道具類、精神生活などあらゆる面で西日本と大きくかけ離れており、縄文社会・縄文文化が基層をなして生きていた。

 

水田稲作が渡来人によって北部九州にもたらされて以降、わずか100年で西日本に伝播し、その200年後には関東平野、さらに100年後には津軽平野まで達するスピードの速さは驚異的である。(中略)中国の0.15~0.2kmと比較して約20~25倍のスピードになる。西アジアからヨーロッパへの農耕文化の移入にしても、その速度は毎年1kmと推定されている。(参考:中村慎一「弥生文化と中国の初期稲作文化」)

それほど大規模な戦闘はなかったとされますが、それでも最後は物事を武力で解決する行動様式(専ら覇権争いは渡来人同士で行われるが、時には対立する縄文人へも向けられる)、それを背景に序列→身分制の支配(統合)秩序と、徴税という収奪制度をもつ社会関係に組み込まれていくのは、例え本源集団が解体されないにしても、強い警戒の対象になったと考えられます。

しかし一方で、稲作技術を中心にした生活を豊かにする進んだ技術力や知識、モノへの欠乏も、可能性収束力をもっていたことも否定できません。実際進んで招聘し融合する集団も存在したでしょう。しかしながら、東日本ではそれほど稲作が定着しなかったことから(稲作に不利な気候条件を考慮しても)、縄文人の欠乏だけを推進力に帰するのは困難に感じます。やはり、渡来人の強い先導力(=同類闘争圧力)→それを受けての縄文人の友好を旨とする受け入れ体質、さらにここから派生して形成された進んだ文化に対する舶来信仰という力学構造なしに、世界でも例を見ない稲作の驚異的なスピードでの伝播と定着はなし得なかったと考えられます。本源集団で育まれた受け入れ体質こそが、「可能性収束」と見える所以だと思われます。

 
>この同類圧力(私権圧力)の満ちる空間=社会に対して、とことんそれを捨象した、これが縄文人=その後の日本人の特徴だともいえます。(北村氏 [4]

確かに、私権圧力の満ちる社会関係は「建て前」の世界として祭り上げておいて(実質捨象か)、日常生活の実態は本源集団の規範で律する、という使い分けをしていたようです。私権圧力が収束力を失った今、本源共認が社会を対象化できるか、進んだ認識を受け入れさらに協働して改良していく、本源体質の出番だと思います。

菜花遺跡から発掘された人骨は渡来人ではなく、縄文系が多い。
ということは初期の稲作技術は縄文人が朝鮮から持ち込んだ可能性が高い。
(朝鮮半島からは当時の縄文遺物が発見されており、西日本と朝鮮は当時既に人と物の交流がかなりあったことは確かなようです)リンク [5]%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%A4%E6%98%93.jpg
その稲作がしばらくして世界でも稀なスピードで東へ伝播していったのは何故か?
且つ関東地方を通り越して青森まで伝わった後、関東へ南下している。
関東になかなか浸透しなかったのは何故か。
仮説としては、寒冷化により食糧確保の難しくなった縄文人にとっては、採取食糧の減少を補うのに、生産力の高い稲作は非常に魅力的であっただろうこと、しかしその技術は渡来人の方が格段に優れていただろうことからして、稲作技術と渡来人を縄文人がさほど抵抗無く受け入れたことは想像に難くない。しかし一方で、より高度な稲作技術を持ちこんだ渡来人は、すでに大陸で私権闘争を嫌と言うほど経験し、その私権闘争に敗れた「難民」(主に春秋戦国の戦乱を逃れた江南人)としてやってきた可能性が高い。
本源縄文社会に外から私権闘争を持ちこんだことから、縄文勢力の強い関東では、渡来人の風習や婚姻制度や集団統合における私権序列の強さに対し警戒心を呼び起こし、渡来文化と一体となった稲作がなかなか浸透し得無かったのではないかと想像します。
ということは、稲作そのものが私権社会の引き金になったというよりは、稲作をもたらした集団のありように私権闘争の引き金を求めた方が論理的には整合しているのではないかと考えます。

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