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2009年08月07日

ローマ・カトリック教会が国=皇帝を超えて組織化されたのはなんで?.

:D くまなです
キリスト教を爆発的に広めたパウロキリスト教の拡大~ミラノ勅令でローマ帝国の公認宗教へに続けます。
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総本山であるサンピエトロ大聖堂(カトリック教会より)
ローマ・カトリック教会は教皇を頂点とする世界統一組織です。現在ローマ法王は世界に約10億人といわれるカトリック教徒・カトリック教組織の頂点に存在します。その起源は西ローマ帝国(西暦395年~476年)を基礎としたローマ・カトリック教会にあります。
同じ時代には、同じカトリックの流れを汲む東方正教会があります。ここでは、各教皇は皇帝に従属していました。例えば、教皇を任命したり辞めさせたりしていました。
ローマ・カトリック教会で実現した統一組織が権力の集中を生み、その後の力の基盤を形成してゆくことになるのです。今回はその原因構造に迫ります。
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ローマ帝国が東西に分かれる前、ローマ・カトリック教会はキリスト教を国教とします。これは国の支配力が弱体化し、キリスト教の力を借りて補強しようとしたからです。
ローマ帝国はなぜ弱体化したのでしょうか。
帝国分離後、西は100年足らずで滅亡しますが、東ローマ帝国では弱体化せず、結果として東は1000年存続しました。その弱体化が激しかった西でキリスト教が力の基盤を形成していったのです。
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ローマ人の食卓(第一学習社「最新世界史図表」より)
ローマ帝国(前27年~後395年)は“パンとサーカス”と称される豊かさを謳歌します(上の絵がその暮らしぶりです)。帝国が強大化し外圧が緩むと統合階級は解脱収束したのです。ローマ帝国の弱体化(統合力衰退)の結果、当時の皇帝は統治をしやすくするために東西を分離し、皇帝の二人の息子に与えます。
このとき、東と西とでは外圧状況が異なります。
東にはイスラム勢力という脅威が存在しました。ササン朝ペルシア(のちのイスラム帝国)です。遡ること60年前(西暦330年)にローマ皇帝は東ローマのコンスタンティノープルに都を移します。それはこの東の脅威に対峙するためです。
東はこの外圧に対抗するため、軍事力や官僚が優位でこれを統合する皇帝の力が強く、教会は皇帝の支配下にありました。
一方、西は東が盾になることでヨーロッパ半島の端の地は益々外圧が低下し、解脱収束したローマを中心に弱体化が進みます。この隙をついて迫るのが「ゲルマン民族の移動」です。これは中央アジアからヨーロッパ北部へのフン族侵入の玉突きとして発生します。その結果、それまでヨーロッパ北部にいたゲルマン民族が追われて南下し、西ローマ帝国の領土内に難民として侵入したのです。
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家族とともに移動するゲルマン人(第一学習社「最新世界史図表」より)
西ローマ帝国は、このゲルマン民族の侵入により消滅してしまいます。難民であるはずのゲルマン民族の方が活力が高く、たいした戦いもなく乗っ取られたという様相だと思われます。ゲルマン民族は、異郷の地で支配層になっていくわけです。
各地でゲルマン民族の国家がつくられます。侵略戦争で奪ったわけでもなく、先住民がおり、彼らは少数の異民族という立場で支配することになります。また、文化水準としてはローマ帝国が上。どうやってスムーズに統治するかと考えた結果、利用したのがキリスト教です。
教皇がゲルマン人の王に支配者としての正当性を与えるというやりかたです。民衆はキリスト教を国教として信仰しているわけですから、これを利用すれば難なく支配できるわけです。
これを積極的に利用したのがフランク王国(のちのフランス・ドイツ)です。メロヴィング家のクローヴィス王は臣下3000人とともにカトリックへ改宗し、十字架を旗印にほかのゲルマン諸国との戦いと征服を繰り返し、フランク王国(のちのフランス・ドイツ)をつくります。
その後、ローマ教皇がその権威に基づき国の支配者に国王や皇帝としての正当性を与えるという構造が中世ヨーロッパ政治の基本になっていきます。その見返りとして、教会は国家から経済面や軍事面で保護を受け、相互依存の関係が築かれていきます。
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ローマ=カトリックの世界(第一学習社「最新世界史図表」より)
皆殺しのような侵略がなく、支配層がコロコロかわり、結果よそ者が支配を正当化する(人心を収束させる)ために、キリスト教の共認支配を利用したのです。
国(の支配者)が変わっても、人心の共認を武器に広くヨーロッパ半島というフィールドを支配し続けたことが、ローマ・カトリック教の一極支配(中央集権)を存続させ、力の基盤を形成していったのです。

投稿者 kumana : 2009年08月07日 List  

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コメント

yuyuさん
いつもながらすごい追求ですね。拍手!
空海の記事楽しみにしています。
そういえば最近空海が人気があるそうで、その理由もわかれば教えてください!

投稿者 tanoyam : 2009年9月11日 02:29

yuyuさん、こんばんわ~。
ますますのご探求、敬服いたします。
さて、「仏教の伝播」の図を見ると、新羅経由や南方ルートなど、さまざまな仏教が日本に入る可能性のあったことが分かります。
つまり、百済のつごうで日本に仏教が伝わったのではなく、受け入れた日本側に主体性があったと考えるのです。

投稿者 匿名 : 2009年9月11日 19:10

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