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2015年02月12日
地域再生を歴史に学ぶ~第8回 江戸時代は惣村自治の集大成
さて以前の記事の中で以下のように江戸時代の事を書きました。
>秀吉の刀狩で惣村の武力は押さえ込まれますが、惣村が消えたのは後の江戸時代です。
これは後の記事で扱いますが、江戸時代に消滅したのはそれまでの自治が藩という形で代替わりしたことによって惣村機能が一段上のお上に認められた公的な組織に昇華したのだと思われます。自発的に登場し、自発的に消滅=自然消滅したのです。
言い換えれば、惣村とは乱世と同時に登場し、乱世が終わると消滅したとも言えます。
最初に訂正をさせていただきます。実は江戸時代には惣村は消滅していませんでした。むしろ江戸時代こそ惣村の集大成であり、それまでの試行錯誤の時代の成果が結実したとも言えるでしょう。
幕藩体制によって農民が厳格に管理されたという教科書的表現も多く、中でもその最小単位であった5人組を戦時中の隣組と重ねて末端までの管理を中央が行う悪しき仕組みだと私自身も考えていたのです。その認識を改める論説がいくつかのHPにありましたので、参考にして江戸時代の自治の本質を見ていきたいと思います。
「五人組帳」
■支配から解放された江戸幕府
まず上位の江戸幕府から見ていきます。
>徳川幕府は参勤交代とか、諸々の義務は課していたが、藩の税収の中から、一定の税を納めろとかの強制はなかった。裁判権も、それぞれの藩に任せた。米の収穫高も徳川が押さえていたのは四分の一。あとは、天領地と呼ばれる商業の税金みたいなものはあったが、徳川幕府も独立採算制だった。大名諸侯に圧力的な強制搾取がなかった、これが徳川幕府の260年間の安定と秩序を生みだし、平和と文化の熟成をもたらしたのだ。~アメーバーブログより
押さえておきたいのは、江戸幕府は中央集権ではなく封建制でもなく、地方の事は地方に任せるを徹底した「村の自治」、「藩の自治」をベースにした信任関係を機軸にした世界でも稀に見る政府だったという事です。家康自身が乱世、戦国時代の教訓を基に作り出した政治手法だったのでしょうが、大衆(=農民)を支配する発想を全く逆転させたところに徳川家の凄さがあります。参勤交代とはそういった中で、地方と中央を繋ぐ位置にあり、間接的かつ奥ゆかしく地方を配下においたのです。そういう意味では既に市場経済が開花し、富と貧困が拡大する中でとった手法としてはこれしかないといった“バランス感覚”に優れた政治でした。アメーバーブログでは以下のように書いています。
>おそらく世界中で、一種の緊張関係の中で、絶妙とも言えるバランスを取りながら、260年間も権力の座にあったと言うのは稀ではないでしょうか。
それでは村の自治の実態はどうだったのでしょう?
HP「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ーから抜粋します。
■5人組は自治の基底組織
>村は自立した「政治組織」であり「生活共同体」であった。
五人組は幕府や藩が組織したものではなく、村が組織したものである。これは村といっても、いくつかの集落に村が分かれて存在することから、それぞれの集落の核になる名主(みょうしゅ)百姓を中心に村人が組みをつくり、村政を担ってきたことに由来している。そして五人組が年貢に関して連帯責任を持つのは、村の自治が年貢の村請けによって成り立っているからであって、、五人組が村共同体の下部機構だったから五人組で連帯責任を負ったのである。また、村の家が没落して田畑を耕作できなくなることは、その分の年貢負担が他の者の肩にのしかかってくるのであるから、村として各家の存続に便宜を図り、没落した家の再興を図っていくのも、村共同体としての機能であった。そしてこれは犯罪の防止という治安機能についても同様である。
村はそれ自身として治安の権限を有していた。これは村が幕府や藩の支配の下部機構であったからではなく、村が自立した「生活共同体」であったからだ。
村には必ず村の掟が存在する。中世の村の掟との違いは、そこに領主が決めた掟の遵守と年貢の完済が挿入されたことだけで、あとは中世の村の掟と同様な内容である。こうして村は、村の秩序を維持するために自前の掟を持ち、自前の自衛のための治安組織を持っていた。幕府や藩は、村の自治機能を利用したに過ぎないのだ。
また年貢も幕府や藩が一方的に押しつけたのではなく、村との契約でなりたっていた。そしてその年貢の実際の各家の負担は村組織が行い、独自に割り振り帳面を作って割り振り、そして村として年貢を領主のもとに納めたのである。近世の村は百姓の自立的な生活共同体であり、政治組織であった。だからこそ村人は共同体の利益を守ることにおいて連帯責任を負い、互いに助け合うとともに、村の掟を破って共同体の利益を私的に侵害するものには、村八分という制裁を科していたのだ。
ここにも書かれてあるように江戸時代の村とは中世の惣村を受け継いでおり、幕府や藩の信任関係を受けてさらに磐石、確固たるものにしていくのです。
では幕府は大衆の自治に対して全く放任、無関心だったのか?これが実にうまい運営をしています。お国自慢で藩同士の競争を煽り、また参勤交代で藩同士、幕府と藩のネットワークを形成する、そして何より市場の発達がバラバラになりがちな地方の自治を繋ぎました。法においても今日的な法治国家の色彩はありません。お触れで示すのです。
■幕府の法制度(=お触れ)は規制の為ではなく対処の時々の方針だった
HP「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ーから抜粋します。
>幕府や藩が村人の生活を規制しようとしたことはたしかである。
しかしこの規制を、近代以後におけるような法制度と考えて、幕府や藩がある一つの理念・目的をもって、近世の時代を通じて一貫した方針で村人の生活を規制したと考えてはならない。
幕府や藩の法は、それぞれの時代の出来事に対処するための時々の方針であり、それが一貫した全国的な法になった場合もあったし、その場限りで忘れ去られた場合もあった。そして幕府が出した法は、全国を対象としてはおらず、幕府の領国やしばしばその一地域を対象にしていた。これが他の大名領国に及ぼされるには老中奉書という添え書きがなされ、あて先を限って大名に送付されたのだ。さらに送付された幕府の法を大名が大名領国に法として広めるかどうかは、大名の判断に任されたのだ。特に国持ち大名と呼ばれる大身の大名は、幕府から自立する傾向が強かった。近世幕藩体制というのは、幕府と諸藩とが、それぞれが自立した国家として連合した形態だったことを忘れてはいけない。
さらにもう一つ大事なことは、幕府や藩は本来は軍事機構であって、武士は村や町の政治を行ったことがなかったことだ。村や町の政治は、村や町という政治組織・生活共同体が担ってきた。従って幕府や藩には、村や町を統治するための知識も経験も不足しており、民政統治や農政などのさまざまな産業政策はなかったのだ。幕府や藩は、それぞれの場所でそれぞれの時代に起きた具体的な出来事に対処する個別の方針を出したに過ぎない。それが恒久法になるかどうかは、個別事例ごとに異なっていたのだ。
江戸時代が地方自治に支えられた、かなり完成された社会であった事は想像がつきますが、このお触れにあるように、決して固定的ではなく、時々の事象(=外圧や課題)に対してその都度、中央(=幕府)も藩も村も自前で方針を考え対応していた事が優れていた点だと思います。
自治とは突き詰めればそれぞれが周りにおきる社会課題を自らの事として考える事なのです。そういう意味では江戸幕府もまた江戸という地域を自治していたのです。
明治以降は中央集権国家になりますから、これらの本来考えるべき課題が全てお上まかせ、人まかせに転落していきます。なぜそうなっていったのか、次の記事ではそこを扱い、また現在起きている地方再生の時代の潮流はどこに向かおうとしているのかを明らかにしていければと思います。
投稿者 tanog : 2015年02月12日 TweetList
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