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2011年08月16日
旅日記シリーズ~伊勢の原風景に迫る
今年の夏は台風の影響で冷夏とおもいきやここ数日は猛暑が続いていますね。旅行へ行かれた方も多いのではないでしょうか?今日は不定期の旅日記シリーズをお届けしたいと思います。今日紹介するのは、三重県度会町の久具都比売神社です。実はこの地にはるいグループの仲間が経営する「るい農園」があり、この春、田植え、茶摘みの手伝いに行ってきたのです。その帰りに、この神社へ参拝してきました。
まずこの度会町について、るい農園のHPより紹介します。http://nouen.rui.ne.jp/shoukai-2.html#mie
三重県度会町は伊勢・志摩半島の付け根部分に位置し、伊勢湾と太平洋熊野灘から共に車で15分の距離にあります。三重農場がある上久具・下久具(かみくぐ・しもくぐ)は、古くは伊勢神宮の神領であった地域。神宮直轄の荘園では、平安時代より神嘗祭(新穀を天照大神に奉る伊勢神宮の祭事)を始め、御神殿に奉られるご供米(くまい)が作られていました。 また、大台ヶ原山系に連なるこの地域は近畿有数の多雨地帯でもあります。豊かな雨と南勢の温暖な気候が稲の成長を促進し、豊かな稔りをもたらしてくれるのです。
町内の平野部には、毎年清流日本一に選ばれている宮川が流れています。この川にはアユ、イワナ、アマゴなどが棲息し、釣り人たちが釣果を競い合います。三重農場のお米やお茶は、この宮川のさらに源流にあたる沢水、岩清水がつくり上げたものです。このように、海の幸、川の幸、山の幸に、そして人の情に溢れた心からやすらげるやさしい村です。
こうした歴史があり、自然の豊かな度会町で、るい農園の仲間たちは減農薬のお茶や、アイガモ農法によるお米づくりにチャレンジし、後継者不足で悩む地域のお手伝いをさせてもらっているのです。
この度会町の「度会」氏といえば、伊勢神宮の神主磯部氏の系譜を引き、南北朝時代には北畠軍の中核として南朝を財政的にも思想的にも支えた一族であった。
そして、その歴史は、神道成立以前のヒメヒコ制の段階にまで遡るようである。そうした由緒ある土地の由来を今に伝えるのが、久具都比売神社である。
以下はHP「伊勢志摩きらり千選」から。http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.base_data.phpQkirari_cd=04648.html
久具都比売神社はその名が平安初期から前期にかけて成立したとされる「延喜式」の「神名帳(じんめいちょう)」にも記されており、これが成立した頃までにはこの地に存在していたと考えられます。 祭神は「皇太神宮儀式帳」によれば、「久具都比売命(くぐつひめのみこと)」と「久具都比古命(くぐつひこのみこと)」とあり、ヒメ・ヒコという男女の対偶神になっています。神宮摂社であるが、倭姫命の巡行以前からこの久具に住む人々の守護神として祀られていたと思われます。
実際に、参拝した感想を書きますと、非常に「凛」とした感じがする、まさにスピリチュアルな空気が支配している場所でした。宮川に接し、クスノキの大木と杉の並木に囲われた「社」がつくりだすひんやりとした雰囲気が姿勢を正してくれます。たぶん天然のマイナスイオンがあふれているのでしょう。
さて、倭姫は最初の斎王といわれる伊勢神道成立を考える上での重要人物であり、斎宮制度によって神道以前のヒメヒコ制から渡会氏の伊勢神道への転換がなされます。倭姫とはどんな人でしょうか? 以下、http://www.xiangs.com/Saigu/Isenosaigu/ より
崇神天皇(すじんてんのう)の頃、天照大神(あまてらすおおみかみ)は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、宮殿の中に祭られていました。けれど二柱の神を同じ場所に祭ることは不都合が多かったため、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に移して、崇神天皇の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせることとなりました。これが『斎王』の始まりです。斎王は神の依代(よりしろ)でもあることから、『御杖代(みつえしろ)』と呼ばれることもあります。
垂仁天皇(すいにんてんのう)の時、老齢となった豊鍬入姫は斎王の任を退き、垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)がその後を継ぎました。この倭姫は日本古代の英雄・ヤマトタケルの叔母にあたります。彼女は天照大神を鎮座させる場所を求めて、宇陀(うだ)~近江~美濃を巡り、遂に伊勢の国に至りました。ここで初めて天照大神が満足の意を表わしたので、この国に社を建て(伊勢神宮の始まり)、斎王が忌みこもるための宮を五十鈴川のほとりに建てました。これが『伊勢の斎宮』の始まりです。なお、この『斎宮制度』は伝説の時代を除くと、天武天皇(てんむてんのう)皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)から始まって南北朝に廃れるまでの約660年間続いたそうです。 天皇の代替わりがあると伊勢の斎王も交代します。斎王は皇族の未婚の姫(天皇の娘とは限りません)の中から占いで選ばれます。大体が母親の身分が低かったり、寵愛が薄かったりするので、占いで決めるといっても、あまり公平な選び方ではなかったようです。
斎王が任を終えて都に帰ることを退下(たいげ)と言います。天皇が死んだ時、または譲位した時に斎王の任が解かれます。また斎王の父が天皇以外の場合には、両親のどちらかが死んだ時に任を解かれます。身内に犯罪者が出た時や自分が罪を犯した時(特に男性と通じた時)には、『事故』とされ不名誉な形で都に連れ戻されます。
どうも斎王制度は、伊勢神宮をバックに権力中枢を奪取した天武一派が政敵を婚姻上排除するために伊勢に人質に出した、そのような仕組みであるように思われる。そしてそのような制度の起源神話として倭姫神話がつくられたということであろう。
大きく見れば、天皇制確立までは各地の男王と女王による「ヒメヒコ」制だったが天皇制が確立される中で、むしろ外戚として皇女を輩出する一族の力が強くなる。葛城氏しかり、物部氏しかり。そうした流れの中で藤原氏が権勢を強めることになるが、そうした中、政敵となりうる皇女候補たちを排除する仕掛けが斎宮だったのであろう。倭姫そして久具都比売命・久具都比古命はいずれもそのような時代の転換を象徴する神々であるように思われる。そして久具都比売が中世の「傀儡女=くぐつめ(旅芸人)」につながっているとすれば、北九州は志賀島に起因する阿曇族の末裔に当たるようである。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/futatunokao.htm
そうすると伊勢=国家神道の中枢にあるのは必ずしも「大日本帝国的な神」ではない。むしろ、朝鮮渡来の騎馬民族は、自らの出自をあいまいにしてでも、阿曇族→伊勢をはじめとする海洋民たちのシンボルであった女神(久具都比売命→倭姫→アマテラス)を、実質的には人質にとったようなものとはいえ、統合観念の中心に据えたともいえる。この二重性がまさに日本の支配階級の狡猾なところである。
日本人は、渡来民による支配も、自らの共認充足=共同体の存続と引替えに許容した。具体的には母系の集団基盤を存続させ、男神を迎え入れた。そのことによって伊勢は、今もすばらしい自然と歴史と村落共同体の伝統を今に伝えている。勿論、戦後、そうした自然と歴史と村落共同体の伝統が危機に晒されていることは間違いないが、それを守るためにも、日本の原風景に迫る思考が必要である。
現在追求中の「属国意識の源流を辿る」シリーズで引き続き検討していきたい。
投稿者 staff : 2011年08月16日 TweetList
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