アイヌは縄文人の末裔か?(8)アイヌは和人以上に日本人である |
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2010年01月16日
素人の創造シリーズ最終回
素人の創造シリーズも過去
「素人は、全て生み出すことが出来る1」
「素人は、全て生み出すことが出来る2」
「素人と創造」
「創造の資質」
「実感投稿と現象発掘が会議室の生命」
「現実を対象化する=思考する」
があり、今回最終回になりました。
最終回では、我々素人が、先行きの見えない現代社会をどの様に対象化すれば良いのか?
そして 本ブログ「縄文と古代文明を探求しよう:いったい、人類はどこで道を誤ったのか・・」の存在理由も
るいネットの投稿にあります。
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☆しかし、社会を統合する為には、統合観念が不可欠である。それは、誰もが認める事のできる事実認識の体系でなければならない。とりわけ歴史認識(人類と社会の原基構造の解明)と脱出方向の提示が最も重要な思考課題となる。
●現実を対象化する思考は、倒錯観念とは別に、脈々と続いてきた。近代科学もその一つで、そこでは使われる概念自体が、外界を対象としているので(内面を対象化しただけの)倒錯観念とは異なっている。
しかし、自然科学さえ、倒錯観念の支配から完全には脱却できず(exデカルトの「方法序説」)、未分明な根本ドグマに基づいて命題や定理が作られ、現実そのものからかけ離れた条件下での実験が行われてきた。従って、科学法則の多くは、現実そのものを対象化した事実認識とは(厳密には)云えない。
●まして、社会「科学」に至っては、(観察や統計という自然科学の手法を真似ただけで)本質は欺瞞観念そのものである。
☆従って、今求められているのは、支配観念から脱却して現実を対象化する、健全な思考回路を取り戻すことである。
●一方では、私権追求から脱却した本源回路発の潜在思念と状況認識によって、可能性収束=行動すること。=非観念過程。
●他方では、支配観念から脱却した本源回路発の潜在思念と事実追求によって、人類の原基構造を解明すること。=統合理論
。
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人は未知に遭遇した時「なんで なんで」と追求して、新たな事実認識を獲得して進化してきた。
そして人類の歴史は、事実の塗り重ねによって作られてきた。
現在の不全社会の原因を「なんで なんで」と追究していくと必然的に「人類と社会の原基構造の解明」に行き着く。
またこの思考方法は「古代人の思考:温故知新」にもある様に人類の普遍的思考方法であると思う。
投稿者 ryou : 2010年01月16日 TweetList
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コメント
投稿者 milktea : 2010年4月4日 20:10
milkteaさん、コメントありがとうございます。王権シリーズ、いつも楽しみにしています。
>人は避けて通れない「死」というものがあるように、潜在的な不安を何かしら抱えて生きているもののように思っています。
確かにそうですね。その不安の処理には2通りあるのだと思います。それは宗教のようなもので、その不安を捨象するのが一つ、不安の原因を突き止めて(現実を直視して)不安を解消するための方針を導き出すのが一つ。
後者がより答えに近いのは言うまでもないと思います。
投稿者 カッピカピ : 2010年4月6日 22:43
宗教ってなに?~3.不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰
こんにちわちわわです 前回はカッピカピさんが、精霊信仰と守護神信仰の違いを丁寧に解説していただき、カッピカピさんを思わず信仰してしまいそうになりました。 …
投稿者 縄文と古代文明を探求しよう! : 2010年4月20日 00:44
今回の記事を読ませていただいて、なぜか「千の風になって」を思い出してしまいました。
人は避けて通れない「死」というものがあるように、潜在的な不安を何かしら抱えて生きているもののように思っています。
けれど、自然の摂理を受け入れ、それぞれの内面で尊重しながら折り合いをつけていけば、確固たる宗教がなくてもやっていけるものだと思っています。
そのことを、今回再確認しました。(記事の内容とは直接関係なくてごめんなさい)