宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【1】プロローグ |
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2014年07月10日
仏教に未知収束の志を観る~プロローグ
前回、7回シリーズで仏教を扱ってきましたが、大きな忘れ物をしている事に気が付きました。
「仏教とは人類史における未知収束の一形態ではないか?」
今回のシリーズでは前回に続き仏教を扱いますが、視点を変えて仏教が登場した時代に遡り、この史実を押さえてみたいと思います。なぜそれを押さえる必要があるかについてはこの記事の最後に触れたいと思います。
先日、るいネットが主催する勉強会で以下の認識が提示されました。それ自体、私たち縄文ブログメンバーの歴史認識を変える大きな気づきに繋がり、またそれを元に当ブログでも改めて人類の社会がどのように形成され、なぜ今日に至っているかを見直す機会となっています。まずはそこで提示された歴史認識を紹介します。
新たな歴史認識人類は真猿の中で木に登れなくなった変異体として地上に登場した。
真猿は力の原理とそれを共認する共認機能によって集団を形成したが、人類は観念を生み出し、それを共認する観念共認によって社会を形成した。動物世界の中で社会を形成したのは人類のみであり、逆に言えば観念に収束する事によって社会という超集団を形成する事が可能になった。
しかし社会の形成は人類500万年の歴史において、つい最近に過ぎず長く見積もっても1万年、短い場合は5000年程度である。現在私たちが生きている社会は私権社会(皆が力の原理=私権を追共認する事で成立する社会)の延長にある。私権社会ではさまざまな階級、国家、規範、法律、文字、科学、宗教も含めその全てが観念世界で統合された。その前の時代は集団間が贈り物で繋がれ横に広がった観念共認をベースにした本源社会であり、本源社会では自然世界を観念化するアニミズム(精霊信仰)がベースになり、さまざまな神話や物語で集団が統合された。これら、社会を形成するには観念が不可欠であり、ついに社会形成に至るまで観念が発達するのに人類は実に500万年を要した。人類が観念をここまで発達させるに至った引力は、未知なるものへの追求だった。
※以下、会のレジメから紹介します。
>人類において未知なる外圧(情報)の把握が最先端の課題になったのは本能でも共認機能でも適応できなかった極限時代に起因している。敵応態たる動物にとってその本能と外圧は整合しているが、不適応態たる人類は外圧と整合していない。従って人類にとって外圧は「いつ何が起きるかわからない」未知の世界であり、当然未知なるものの把握が最先端課題となるの(この未知収束の回路はDNAに深く刻印されている)だからこそ、未知なるもの(当時は自然)の追求が第一義課題となり、追求共認⇒追求充足の回路が形成されたことによって一段と追求力を上昇させ、遂に未知なる外圧の中心に精霊を見る(=観念原回路を形成する)に至ったのである。
人類の歩みを簡単に押さえると下記になる。
******************************
極限時代
木に登れないカタワの猿⇒凄まじい外圧・・外圧と整合しない存在=人類
外圧=未知なるもの(いつ何が起きるかわからない)
未知なるものの把握⇒未知なるものの追求が第一課題
精霊を見る(自然世界を把握=観念原回路の形成)
言語発明、道具発明、洞窟を出る
社会時代
本源社会(1万年前~)
集団間が贈物で繋がり、社会が形成。
神話、アニミズム等の観念世界が発達、社会的役割の誕生
私権社会(5千年前~現在)
私権(力の原理)を集団で共認、個人は追共認。
国家、文字、宗教、法律、規範、科学などの観念の共認
*****************************
つまり、社会形成の鍵は観念共認にあり、例え私権社会の観念内容が誤っていたとしても、それによって人類は今日まで発展してきた。一方、社会は形成されてまだわずか5000年しか経っておらず、人類史という流れで観ればつい最近の事に過ぎない。現在が閉塞の時代で次の新しい社会の過渡期で混迷を極めているとはいえ、マクロ的に見れば社会形成の一途上に過ぎないとも言える。そして現在の閉塞状況を突破し、あたらな社会を作り出すのもまた新たな観念であり、その為に不整合なるものに対する未知の追求姿勢が求められるのである。
古代宗教における未知収束の足跡
人類は5000年前に大きく本源社会から私権社会へと統合様式を変化させ、やがて国家という巨大な社会を形成するに至る。この変化は当時の人にとっては凄まじく、世界中の各所で新たな観念が登場するきっかけとなった。
それが2600年前に同時に登場した仏教、儒教、キリスト教である。
本源集団が失われ、奴隷の為の宗教として登場したキリスト教は現実否定の架空観念で統合されており、唯一神を起点とする価値観念化した宗教は極めて強い収束力をもったが、世界を破壊しただけで未知の追求収束とは言えない。
しかし同時に登場した仏教、儒教は共同体を温存した中で誕生しており、それまでの本源社会と私権社会の綱引きの中で不整合、矛盾を解決すべく追求に入っている。仏教は修行=瞑想と悟りによって万物を因果関係で把握し、空という全てが繋がった世界として現実世界を捉えた。一方儒教の仁・義・信は規範観念で架空観念ではあるが、その先に人格の修養を目的とした。
この本源社会から私権社会への移行期に発生したこの2つの宗教は極限人類の時代に獲得した未知追求の延長にあり、急激な時代変化ゆえにDNAに刻印された観念原回路を動因させたのではないかと思われる。
このテーマを追求する問題意識
311の原発事故以降、お上もマスコミも学者までもが情報を隠蔽し事実を明らかにしようとしないばかりか嘘ばかりをついています。さらに既に先の選挙(衆議院、参議院)で支持率の嘘報道や票の入れ替えなどといった不正選挙が行われた事はネットなどでは既に明らかになっています。また、医療、食料、環境など私たちの身近な処で正しい情報が流されていません。この間、それら全てが繋がってきて、人々の間に深い不整合感をもたらしています。
同時に気がついた人達から政府やマスコミは信用しないとして、ネットやツイッターを通じて自ら情報を辿り学ぶ、考えるといった自考志向、自給志向がこの2,3年急速に増えてきています。これは新しい社会形成の胎動に向けての未知収束ではないでしょうか。
そして現在の状況とは極限時代の人類と近似しており、私権社会突入の激動期の孔子や釈迦のように未知なるものに急速に収束する動きが発生しているのではないでしょうか?
未知収束は今後数年間で大きな流れを作り出すでしょうが、「不整合感が高まれば必然的に未知の追求に向かう」、この人類の特性構造を仏教、儒教発生時の状況、志を見て行く中で、一つでも二つでも見出す事ができればと思っています。
【小テーマ設定】~追求の小テーマを以下のように設定します。
アーリア人はインド社会に何を起したか?
インド哲学は未知収束か否か?
釈迦は何を見ようとしたか?
孔子が求めた世界観とは?
小乗仏教はなぜチベットやタイに広がったか
儒教のその後は未知収束か?
瞑想を考える
まとめ、釈迦、孔子に何を学ぶか?
投稿者 tanog : 2014年07月10日 TweetList
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