| メイン |

2017年10月05日

「教科書の嘘を検証する」第8回~倒幕から維新はなぜ起きたのか?その本質は2度目の南北朝戦争

第8回はいよいよ江戸末期の倒幕の部分です。明治時代を文明開化と呼び、それ以前の歴史を悪しき封建時代として評する教科書の構造がこのあたりから急激に見えてきます。なぜ長州藩が尊王攘夷を行ったのか、彼らが目指したのは何なのか?裏で操っていたのはどの勢力か、それに触れずしてこの時代を読み解く事ができるのでしょうか?いつものようにまず教科書の記述を紹介します。(アンダーラインはおかしな部分です)

倒幕への動き)
1863年に尊王攘夷運動の中心であった長州藩が朝廷を動かして、幕府に攘夷の実行を約束させました。そして同年、長州藩は率先して関門海峡を通る外国船を砲撃し、海峡を封鎖しました。攘夷運動の高まりをおそれた幕府は朝廷の支持を取り付け、京都から攘夷を主張する公家や長州藩士を追放しました。
1864年、長州藩は京都での主導権を取り戻すため、京都を攻めましたが、御所を守る会津藩、薩摩藩などと戦って敗れました。幕府は諸藩に命じて長州に出兵して、幕府に従わせました。同じ時期、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国の艦隊は、連合して長州藩に報復の攻撃を行い、下関砲台を占領しました。欧米の軍事力を実感した長州藩の木戸孝允などは列強に対抗できる強い統一国家を造るため、幕府を倒そうと考えるようになりました。
幕府に従う姿勢を見せていた長州藩は下関で長州藩士の高杉晋作が兵を挙げ、木戸孝允とともに藩の実権を握りました。薩摩藩でも生麦事件の報復の為起こった薩英戦争でイギリス艦隊に鹿児島を砲撃されると、西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり、イギリスに接近して軍備を強化しました。
1866年土佐藩出身の坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の間を仲介し、薩長同盟を結ばせました。同年、幕府は再び長州藩を攻めましたが、出兵した藩の戦意は低く、各地で敗れた幕府は、将軍徳川家茂の死を理由に停戦しました。

大政奉還と王政復古)
このような情勢の中で第15第将軍となった徳川慶喜は1867年土佐藩のすすめで政権を朝廷に返し(大政奉還)、260年余り続いた幕府はほろびました。慶喜は幕府にかわる新政権の中で主導権を握ろうとしましたが、同年、西郷や公家の岩倉具視などが朝廷を動かして王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする政治にもどすことを宣言しました。また徳川家の政治的な影響力を除く為、慶喜に官職や領地の返上を命じました。1868年これに不満を持つ旧幕府軍との間で鳥羽、伏見の戦いが起こり、新政府軍が勝利しました。新政府は江戸城を明け渡させ、その後も軍を進めて翌年には函館で旧政府軍を最終的に降伏させ国内を平定しました。こうした旧幕府軍と新政府軍の戦いを戊辰戦争といいます。

幕末で明らかにしたいのは以下の事です。

・尊王攘夷運動とは何か?
・なぜ長州藩が主導したのか?
・欧米の軍事力に屈した長州藩が幕府を倒そうとした理由があきらかにおかしい。
・大政奉還をした徳川を攻めた戌辰戦争の本当の目的とは。

これらを盛り込み以下のように書き換えました。(赤文字が追記、修正した部分です)

倒幕への動き)
幕末に突如として尊王攘夷運動が起こります。この運動は欧米圧力が高まる中、天皇を尊び、外国勢力を排除するとありますが、実のところ南朝天皇による北朝天皇の排除、交代です。また北朝天皇と繋がっていた徳川幕府を倒す事が南朝勢力の念願でした。南朝の中心勢力であった長州藩は尊王攘夷運動を起こして幕府に反旗を翻します。
1863年にその中心であった長州藩が朝廷を動かして、幕府に攘夷の実行を約束させました。そして同年、長州藩は率先して関門海峡を通る外国船を砲撃し、海峡を封鎖しました。攘夷運動の高まりをおそれた幕府は朝廷の支持を取り付け、京都から攘夷を主張する公家や長州藩士を追放しました。
1864年、長州藩は京都での主導権を取り戻すため、京都を攻めましたが、御所を守る会津藩、薩摩藩などと戦って敗れました。幕府は諸藩に命じて長州に出兵して、幕府に従わせました。同じ時期、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国の艦隊は、連合して長州藩に報復の攻撃を行い、下関砲台を占領しました。この時に長州藩は欧州連合に取り込まれ、武器や資金の提供を受け、後の倒幕の手先勢力になっていきます。元々南朝復活を目指していた長州藩は倒幕という目的で欧州連合を支援していたロックフェラー財閥と利害が一致したのです。

幕府に従う姿勢を見せていた長州藩は下関で長州藩士の高杉晋作が兵を挙げ、木戸孝允とともに藩の実権を握りました。南朝末裔のもうひとつの勢力である薩摩藩でも生麦事件の報復の為起こった薩英戦争でイギリス艦隊に鹿児島を砲撃されると、西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり、イギリスに接近して軍備を強化しました。
1866年土佐藩出身の坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の間を仲介し、薩長同盟を結ばせました。坂本竜馬も同時に欧米の支援を受けて倒幕へと動いていた一人です。同年、幕府は再び長州藩を攻めましたが、出兵した藩の戦意は低く、各地で敗れた幕府は、将軍徳川家茂の死を理由に停戦しました。

大政奉還と王政復古)
このような情勢の中で第15第将軍となった徳川慶喜は1867年、盟友であった土佐藩のすすめで苦渋の末、政権を朝廷に返し(大政奉還)、260年余り続いた幕府はほろびました。慶喜は幕府にかわる新政権の中で親幕派で主導権を握ろうとしましたが、同年、西郷や公家の岩倉具視などが朝廷を動かして王政復古の大号令を出し、(南朝)天皇を中心とする政治にもどすことを宣言しました。また徳川家の政治的な影響力を除く為、慶喜に官職や領地の返上を命じました。新政府軍はそれだけに留まらず、旧幕府の息のかかる諸藩に戦いを仕掛け、兵力と鉄砲を中心とした軍事力の差で次々と勝利します。
新政府は江戸城を明け渡させ、その後も軍を進めて翌年には函館で旧政府軍の中心勢力(北朝勢力)を皆殺し、完全に消滅させました。こうした旧幕府軍を武力で征圧した新政府軍の戦いを戊辰戦争といい、明治政府はこの凄惨な戦争の上に誕生します。300年前に終わっているはずの天皇同志の醜い勢力争いが復活、幕末とは2度目の南北朝戦争だったのです。

参考投稿:徳川幕府の無血革命(=大政奉還)をどう評するか?
明治維新、西郷隆盛及び征韓論について ~金貸しと明治政府(長州)が作った歴史~
維新という幻想② 「薩長同盟」とは英国の商社お抱えの武器密売商人坂本龍馬を長州に紹介したというのが正しい

投稿者 tanog : 2017年10月05日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/10/3264.html/trackback

コメント

なかなか面白い試みの論の展開ですが、やや内容が二番煎じの感が否めないですね。割と論の出所が他の方のネットで発表されているものや誰もが参考にする某先生の内容に出ているような気がします。共感される内容に影響を受けることはままありますが、やはり独自の調査、研究がほしいところです。頑張ってください。

投稿者 亜幕末愚連隊 : 2017年10月18日 17:41

初回に続いてコメントします。よく調べられていますね。わたしも坂本さん、ロックフエラーのことは少し前に他のブログで知りました。こういうところが歴史の真実だろうと思います。なかなか教科書では書いてくれません。北朝、南朝の真実なんぞはなおさら書けませんね。

投稿者 出雲小社 : 2017年10月18日 17:53

幕末に西方の雄藩である長州、薩摩がなぜあのように
幕府に対抗するまでの力を蓄えることができたのか、
その秘密を理解しなくては、倒幕のからくりが
理解できない。

投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2017年11月2日 01:01

コメントしてください

*