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2009年05月03日

人類が新大陸に渡ったのはなぜか

新大陸における基層文明が出来るまでの過程で、ポイントとなるのは、
 ①旧大陸からの移動
 ②生産様式の変化
 ③基層文明の発祥→都市国家へ
の三段階と考えました。
それぞれにおいて、なぜそうしたのか、そうなったのかを明確にすることによって、アメリカ基層文明が生まれるまでの流れが分かり、そこまでを俯瞰することによってどのような文明だったのかを理解することが出来ると思います。
これまでも、新大陸への移動の時期はいつなのか、どのような人種が渡ったのかなどを調べてきましたが、改めてグランドテーマである「アメリカ基層文明とは何か」に繋がるよう、まとめなおしてみたいと思います。
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【新大陸に移動したのはなんで?(=そのとき人類にどんな外圧が降りかかったのか?)】
 ⇒人類は新大陸に渡ったというより、新大陸に取り残されたのではないか?
人類の旧大陸から新大陸へのルートは、現在のベーリング海峡が陸地だった頃、そこを歩いて渡ったと言う考え方が主流です。
そこで、
・陸橋(以降「ベーリンジア」)が存在した時期はいつ頃か?
・その当時のベーリンジアの環境はどうだったか(~花粉のモデルより~)
  →ベーリンジアでは動植物は生きてゆけたのか
  →ベーリンジアでは人類は生きてゆけたのか
を見てゆき、当時の外圧とはどんなものだったのかを調べてみます。
以下は、「アメリカの起源」(ブライアン・M・フェイガン著)より要約してみました。
■かつてのベーリング海峡の姿
1887年に地質学者アンジェロ・ヘイルプリンという地質学者が初めて次のような指摘をしました。
それは、「新旧大陸の動物化石のうち、熱帯のものにはほとんど共通した種が見られないのに、北方の動物化石にはあまり大きな違いが存在しない」
というものです。
さらにベーリング海峡をはさんだ両地域の動植物相はほとんど同一だとのこと。
このことは、ベーリング海峡を挟む両大陸が、かつては一つの陸続きで、同じ植生、同じ動物が両大陸にまたがって存在していたことを示唆しています。
またその7年後に、もう一人の地質学者のジョージ・ドーソンがベーリング海峡の水深を計り、ここが意外に浅いことを発見しました。
これによりアジアとアラスカがかつては広大な平原で結ばれていたことを確信したそうです。
その後スウェーデン人の科学者エリック・ハルテンにより、この陸続きの地は「ベーリンジア」と呼ばれるようになりました。
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(「与那国海底遺跡」さんよりお借りしました)
■ベーリンジアが存在した時期:
様々な地質調査等により、かつての氷河期、7.5万年前~4.5万年前、2.5万年前~1.4万年前頃には陸地となっていたということは、ほぼ定説となっています。
■ベーリンジアの環境
極北の、しかも海水面が低下して陸続きとなる氷河期におけるこの地のイメージは、地球上で最も寒く、人が住むには全く不適な土地、と言ったところでしょう。
当時の気候は、化石として見つかった植物の花粉分析から知ることが出来ます。
それによると、ベーリンジアはツンドラというよりむしろステップに近く、夏には氷がとけ、草が大地を覆っていたと考えられています。よって、大型草食獣の餌となる草は十分あったようで、このような土地がシベリアからアラスカにまで亘っていたようです。
一方で極寒の地で生きられる動物はいたのか?
すでに化石が発見されているように、マンモスやバイソンなどがこの地にいたことが明らかになっています。彼らは体中が長い体毛に覆われ、寒さに耐えられるようになっています。また、この長い体毛はそこより南の湿気のある地だと、湿気で体毛が凍るのでむしろ命を落とすことになりかねませんでした。ということは、このベーリンジアこそがマンモスたちにとっても最も生き延びやすい場所だったということが言えます。
そして、餌となる植物、それを食べる動物がいれば、それらを狩る人間たちがいる可能性も十分考えられます。人間もこのような極寒の地で生きられるようになったのは、「北方モンゴロイド~寒冷地適応の秘密!」にも有るとおりですね。
■ベーリンジアは、氷河期の動物と人間の避難所だった
そして、注目すべきは、上記のような事実から、多くの古環境学者たちは「ベーリンジアは人類が住むのに全く不適な環境であるどころか、氷河期がクライマックスに達した時の動物と人間の避難所であった」と考えていることです。
逆に南に下がった土地の方がタイガやツンドラに覆われて、一部の小動物しか生きられない気候だったようです。
つまり、ベーリンジアが存在していた当時は、南下するよりむしろ極北のベーリンジアの環境の方が実は人間も動物も生きていきやすい環境だったということになります。
その一方で、タイガやツンドラ地帯よりもさらにもっと南下することはなかったのかという疑問がわきますが、これには南下出来ない理由があります。
理由の一つは、上述のように乾燥ステップの気候が動物たちに十分な餌となる植生をつくり、草を食べる動物がいればそれを食糧として人間も生きてゆけるのに対し、その一方で南下したほうが食糧が無いという事実。
そしてもう一つの理由、最大の理由ですが、それが北米大陸を覆っていた二つの大氷床、ローレンタイド氷床とコルディレラ氷床であり、これらがその行く手を阻んでいたからです。
つまりは、危険を冒して食料も無い大氷床の上を移動し、谷間に落ちて命を落とすよりは、移動も楽で食糧も手に入る大平原ベーリンジアこそが適応できる地だったわけで、わざわざ移動する動機は無いことになります。
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(「世界の氷河」より)
ではなぜその後わざわざそこから新大陸を南下する必要があったのか!
■新たな外圧=陸橋の海没
ベーリンジアに住んでいた人類と動物たちは、そもそも新大陸の奥深くへ拡散してゆかなかったのは何故か。
氷河期クライマックスにおいては動物と人間の避難所であり、最も生き延びやすい地であったベーリンジアも、氷河期の終焉と共に氷河の氷が解けて海水位が上がり陸地が後退する事で、動物も人間も住む場を奪われてゆきます。
そして徐々に高地に移動しながら、ついにはベーリンジアの水没により、シベリア大陸と新大陸のどちらかに取り残されることになります。
これが結果的に新大陸に人類が移動した(というか、正確にはとり残された)理由と考えられます。
(ですから、新大陸に渡った最初の人類は、この時期よりも早く、ベーリンジアが陸続きだった頃にまで遡るのではないでしょうか)
また、その後気温の上昇と共に人類の南への行く手を阻んでいた二つの大氷床も徐々に後退し、その間に無氷回廊と呼ばれる隙間が生じ、動物も人類もここを通り南下、拡散して行くことが可能になります。
**********************************
こうして見ると、外圧変化、環境変化というと、氷河期による寒冷化で食糧が手に入らなくなることを想像しますが、この時はむしろその逆で、氷河期の終焉により、住む為の陸地がなくなり、取り残されるという外圧だったことが分かります。

投稿者 saah : 2009年05月03日 List  

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コメント

縄文人の性質 (文明) も、古代国家の形成の中には紛れていた と、私も思っています。
縄文土器の文様は、その線こそ不定形ですが、土器の回りを同じ模様で、正確に4分割 ~ 5分割 ~ 6 ~ 8 にしていて、幾何学的なセンスや知識があったことが分かります。
私は、縄文人に具わっていたその知能が、前方後円墳の形を創造させた、と考えたことがあります。
前方後円墳は、円と四角 (三角) で出来ていますから。
ただ、‘みんな一緒’という精神は、江戸時代の鎖国の世の中を経て、今の日本人に具わったものなのではないでしょうか。

投稿者 五節句 : 2009年6月7日 12:41

五節句さんのユニークな分析、ありがとうございます。
>私は、縄文人に具わっていたその知能が、前方後円墳の形を創造させた、と考えたことがあります。
前方後円墳は、円と四角 (三角) で出来ていますから。
なるほど、四角も横から見ると三角ですね。
確かに円形なるものは土器を想像させます。
前方後円墳については、いろんな分析がありますが、日本列島のオリジナルである事はほぼ間違いないようです。
少なくとも円墳と方墳の集団を重ね合わせるという発想は、みんな一緒という感覚を持たずして実現されるでしょうか?
やはり江戸を待たずして備わっているという方が自然なように思います。
なんとなく感じる安心感・・・みんな一緒。
なんとなく感じる違和感・・・自分だけ違う。
これは日本人に限らず、集団動物として生きている人類に当てはまる公式だと思います。ただその弱い、強いがあるだけで。

投稿者 tanoyan : 2009年6月9日 00:54

成る程 と思いました。鎖国という政策も ‘みんな一緒’ の精神の裏返しのようなものですよね ・ ・ ・、一緒の集団が 己の縄張りを確保する為に、線を引く必要が起きてくる、ということでしょうか。
こちらの記事にあることの繰り返しの意見ですが、私は、前方後円墳の形には 縄文人の知識が活用されている、と感じているので、弥生文化が縄文文化を終わらせて古墳時代を築いた のではなく、日本列島で勢力を膨張させていた縄文人の集団の中に弥生の文明 (主に稲作技術) が取り入れられていって、文化のステージが上がって 古墳時代 が始まった、と想像します。
前方後円墳もそうですが、古墳の副葬品の鏡の文様にも幾何学的文様(直弧文鏡)と具象的(三角縁神獣鏡など)な文様の二種の系統があります。
私個人は、直弧文鏡は縄文系、三角縁神獣鏡などの具象的文様は大陸系の人が作ったと思っているのです。

投稿者 五節句 : 2009年6月9日 11:26

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