縄文時代“塩”はどこからどうやって採取してたのか? |
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2007年08月17日
インカの国家統合(武力・信仰・性)
これまでの記事で、インカのミイラと精神世界、国家統合がおぼろげにわかってきました。
インカ部族が諸部族を統合する際に、武力による統合ばかりでなく信仰を統合したという事ですが、実はもう一点気になりはじめた事があります。
インカは諸部族集団の統合の要である性関係にまで立ち入っていた点です。
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「インカの国家宗教と政治」から引用します。
>農民層からは、さらにヤナコナ(奴隷、召使)やアクリャ(選ばれた女性)が徴発され、アクリャは宮殿に入れられて、一生処女を守りながら太陽の神に奉仕し、皇帝のための織物を織りました。
>インカでは神殿は王とその血縁者のみに解放され、一般には秘されています。ケチュア語で宇宙の「臍」を意味するクスコの中心には太陽神殿(コリカンチャ)がおかれていましたが、そこは神官と「太陽の処女」の拠点であり、後者は女祭司「太陽の処女」になるか、皇帝の第二夫人になるために、国費で教育を受けた、もっとも純潔な娘たちの中から選ばれました。皇帝が女祭司の一人と「過ちを犯した」場合には、その事実を認めれば済みましたが、皇帝以外の者が同じ過ちを犯した場合には、誰であれ、相手と一緒に殺されました。
この「農民層のアクリャ」と「女司祭/第2夫人」の記載が正しいとすれば、インカ皇族は娘たちを集めて「大奥」のようなものをつくっていたと考えられます。娘を取り上げる代わりに報酬を出したとされていますが、これは娘を差し出した側からすれば人質?のような効果がありインカへの従属が決定的になります。
では、第一夫人はどうしていたのでしょうか?
伝承によれば、インカの皇族は代々、近親相姦(兄弟婚)だったとされています。
これは第11代皇帝のワイナ・カパックが妹を妻として子をもうけた史実や、インカの始祖伝説が兄弟婚を示している事からわかります。
そうなると、第一夫人とは「氏族内婚(集中婚or兄弟婚)」です。
>インカの始祖伝説(再び「インカの国家宗教と政治」から引用します)
インカ帝国の始祖伝説は次の通りです。高原の湖、チチカカ湖の太陽の島で、マンコ・カパックとその姉妹が太陽の神によってつくられました。当時先住民達は「野蛮」な生活をしていたので、太陽の神は彼らに人間の生活の仕方を教えるように命じました。マンコは姉妹を伴って、神の教えに従い、黄金の杖を持って旅に出ます。チチカカ湖から北に向かって、苦しい旅が続きましたが、クスコの谷に入って、黄金の杖を地面に投げると、杖は見る見るうちに地中に沈みました。そこで太陽神のいった豊かな土地、都をつくるべき土地に来たことがわかり、マンコ達は仮の住居をつくり、マンコは住民に農業を、姉妹達は織物を住民に教えました。それにより、住民は人間の生活を始めることができました。
このように、インカの皇族は、伝統的な氏族内婚を守りながらかつ、他部族の娘を集めて集中婚を行うという2層の婚姻様式を持っていた事がわかります。
しかしこの様式は、11代皇帝ワイナ・カパックの2人の子、妹を妻として設けたワスカルと、インカに滅ぼされた征服民族の王女から生まれたアタワルパが南北朝に分かれて対立した事がしめしているように、不安定要素を孕んだものだったのです。
by tamura
投稿者 nandeya : 2007年08月17日 TweetList
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