縄文草創期の現実~洞窟に隠れ住むしかなかった |
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2007年09月29日
生贄文化から見える世界観
こんにちは! 😛
saahさんの生贄シリーズ、第一弾「マヤの生贄~何のために行われたのか?」に続く第二弾・・・
をお送りしたいと思います。
チャックモール写真解説 「神が舞い降りるマヤの都チチェン・イッツァ」http://allabout.co.jp/contents/secondlife_tag_c/worldheritage/CU20061206A/index4/より
(エル・カスティーヨ内部にあるチャック・モール像と、奥がジャガーの玉座。戦士の神殿にもチャック・モール像があり、像のお腹部分にある鉢に生け贄の心臓が奉げられた)
皆さんは、「生贄」というとどの文明を創造しますか? 🙄
マヤ、アステカ、インカ文明・・・このあたりが思い描かれたのではないでしょうか 🙂
確かに、いずれもが「生贄の文化」をもった社会としてクローズアップされており、「なんか、中南米って野蛮な文化があったんだねー」などと考えがち?ですが、ちょっと待ってください!
世界の歴史を紐解くと、いろんな場所で生贄の文化は息づいていたのです。勿論日本でも・・・。
今回は「世界の生贄文化」に目を向けて、その意味に迫ってみたいと思います。
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【生贄の定義】
まず生贄(いけにえ)とは・・・ 😈
神への供物として生きた動物を供えること、またその動物のことである。供えた後に殺すもの、殺してすぐに供えるもののほか、殺さずに神域内で飼う場合もある。旧約聖書レビ記にある贖罪の日に捧げられるヤギは、スケープゴートの語源となった。動物だけでなく、人間を生贄として供える慣習もかつてはあり、これは特に人身御供と呼ぶ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
とあります。
では、その『生贄』・・・世界のいろんな場所でどのように文化として息づいていたのでしょうか。
【世界の歴史に見る生贄】
①マヤ・アステカ
アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。ほかに豊穣、雨乞いを祈願して、捧げられることもあった。しかしその一方では、これら生贄に捧げられる事が社会的にも名誉であると考えられていたとされ、球技によって勝ったチームが人身御供に
供されるといった風習も在った模様である。
生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま火打石のナイフで心臓をえぐり取られたとされる。生贄の多くは戦争捕虜で、生贄獲得のための花戦争も行われた。選ばれた者が生贄になることもあり、稚児が神に捧げられることがあった。ただアステカはこのような儀式を毎月おこなったため、一説にはこれにより社会が弱体化、衰退したとも言われている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
切手説明 http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-cortes.htm
(右下の切手の右の神官が右手に胸を切り裂く黒曜石のナイフを持っていて、左手にはつかみ出した心臓があり、右上の切手は生贄となった犠牲者を横たえる石の台が描かれています。)
②インカ
太陽信仰に絡む人身御供を行う風習があったが、これらの生贄は社会制度によって各村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられていたという。なおこれらの人々は旱魃や飢饉などの際には供物として装飾品に身を包んで泉に投げ込まれるなりして殺された訳だが、そのような問題が無い場合には生き延び、一定年齢に達して一般の社会に戻った人も在ったという。
アステカ同様に稚児が捧げられる事もあった。この場合には、やはり特別に募集され育てられていた稚児は、より神に近いとされる高山にまで連れて行き、コカの葉を与えて眠らせた後に、頭を砕いて山頂に埋められた。特にこれらの生贄では、装飾された衣服に包まれたミイラも発見されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
③ギリシャ
古代のアテネでは、2人の浮浪者を1年間公費で養い、祭の日に他の市民の罪や穢れを2人になすりつけておいて、最後に街の外の崖の上から突き落として、市民全体の贖罪とするという習慣があった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
④中国
饅頭(まんとう)は伝承によれば、3世紀の中国三国時代の蜀の宰相諸葛亮が南征の帰途、川の氾濫を沈めるために川の神へと人柱を立てて、人の首を川に沈めるという風習を改めさせようと、小麦粉で練った皮に肉を詰めそれを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ川の氾濫が静まった故事からこの料理が始まったという説がある。ただしこの説は北宋時代に書かれた『事物紀原』の創作を起源とし、のちの明時代に書かれた『三国志演義』(フィクション)で多く知られるようになり、一般に流布し、このように解説されることが多い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本では、河川が度々洪水を起こしたが、これは河川を管理している水神(龍の形で表される)が生贄を求めるのだと考えられた。今日に伝わるヤマタノオロチ等の龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害で死亡する、またはそれを防止するために河川に投げ込まれる、人柱として川の傍に埋められる等したのが伝承の過程で変化して描写されたのだと考えられている。
白羽の矢は所謂匿名による指名行為であった訳だが、これらは霊的な存在が目印として矢を送ったのだとされ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないとされた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なるほど、世界の生贄の文化を見比べていくと、人間社会の本質が少し見えてきそうです。
「永井俊哉ドットコム」http://www.nagaitosiya.com/a/victim.htmlの中では、生贄のありかたを「供犠型と迫害型」にわけた興味深い分析があります。
「供犠型」とは、生贄を神聖な神への贈り物であるとする捉え方です。神の怒りを鎮めたり、喜ばせるための供物ですね 😮
人知ではどうすることもできない自然災害 は、超越存在としての神の成せることであり、その神によって恩恵を受け生かされている人間からの贈り物ということなんでしょうね。
自ら進んで生贄になる人もいたというマヤ・アステカ、インカでは、神が中心の世界観が明確にあったと考えられそうです 🙄
それに対して「迫害型」と言っているのは、所謂スケープゴートですね。つまり、自分達が生かされるために、他者を犠牲にするという発想です
これは、神が中心の社会では、考えられませんが、現代のように世界の中心が人間になると、自分の生のための「身代わり」として生贄を捧げるようになったんでしょうか?
前述の古代のアテネの例なんかを見ると、奴隷に罪を擦り付けて、自分達は生き長らえるという意味で迫害型と言えそうです。
アステカのように戦争捕虜を生贄としたのは、両面の意味があるかもしれません。
いずれにしても、「生贄」という行為を追求することで、その社会と人間の関わりが見えて来るように思いませんか? 😀
投稿者 bunbun : 2007年09月29日 TweetList
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コメント
投稿者 ダイ : 2007年10月11日 22:27
やはり、外圧状況を捉えることは重要ですね。
現代もきっと同じだと思いますよー
だから、歴史の勉強は現代の役に立つ!
投稿者 さーね : 2007年10月13日 22:33
>縄文の生活様式が徹底して自然の摂理に基づいていたことがうかがえます<
正にその通りですね!外圧に伴う生活様式の適応を塗り重ねることで現代の人間が成り立っているんですね。