“縄文気質”を考えてみよう-2 |
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2008年05月01日
古代アメリカ文明は私権闘争の結果築かれたものなのか?
ユーラシア大陸では、5~6000年前にメソポタミヤにおいて掠奪→本源集団が破壊され、私権闘争→(私有と身分をもとにした)私権社会が確立していきますが、これは人類にとって不可避な(必然的な)出来事だったのでしょうか?それとも別の道があったのでしょうか? この疑問は、山奥や海洋の一部の部族を除いて私権社会と化していったユーラシア大陸においては、「もしも」という仮定でしか考える事ができません。 ところがユーラシア大陸とは別に、つい500年前まで一定の進化を遂げた新大陸文明は別の道を辿って文明化した可能性があります。
古代アメリカ文明は(ユーラシア大陸同様に)私権社会だったのか?そうではなかったのか?この疑問こそ古代アメリカ文明を読み解く鍵になりそうです。
メソアメリカの本格的な城塞都市「モンテ・アルバン」から多量に発見されている「征服石板」の史実を見てみます。
モンテ・アルバンの勢力は、紀元前300年~100年頃にオアハカ盆地(メキシコ盆地とマヤの中間に位置する高地の盆地)を政治的に統一したと考えられる。 なかでも山上都市のモンテ・アルバンは天然の要害で、傾斜の緩い部分には土と石で防御壁が築かれている。 ここには紀元前200年頃にはオアハカ盆地の総人口の5万1000人の1/3にあたる1万7000人が集住したと考えられている。
モンテ・アルバンの大広場では「建造物J」が紀元前100~後200年の間に建設された。その壁にはめ込まれた40以上の「征服石板」は、サポテカ国家の領土の拡張の明確な証拠を提供する。 「征服石板」にはサポテカ文字が刻まれており、地名と考えられる文字の下には「~の場所の」を意味する「丘」の文字がある。・・・・・この「征服石板」に刻まれた地名の解読に成功した。 それらはモンテ・アルバンにから80~150キロメートルに位置する。
「丘」の文字の下には、各地独特の頭飾りを付け、目を閉じているor瞳がない、上下が逆になった顔の文字が刻まれている事が多い。 これはサポテカ国家に征服され人身御供にされた捕虜の図像と解釈されている。その下には更なる碑文が刻まれているものもある。注意しなければならないのは顔の文字がない征服石板である。これは軍的な征服よりもむしろサポテカ国家が同盟・外交関係を築きあげた地方、サポテカ国家へ貢納した地方、・・・・を示しているのかもしれない。
「古代メソアメリカ文明」青山和夫著より引用
これは古代アメリカ文明の一史実ですが、ここでは、武力による上下関係の構築と地域社会(他部族)の統合の意思が明確に読み取れます。 また、その力による秩序を保つために石板に刻みつけた事も明らかです。 その意味では古代メソポタミヤを支配した王が他部族の支配を石板に刻んだのと同様で、武力支配国家が成立していたといって間違いないように思います。
一方、貢納(贈与の延長?)は目的が微妙で、武力闘争⇒支配⇒貢納が目的なのか?秩序維持のための貢納なのか?
貢納があったというだけでは解りません。
身分制についてはどうか?
貴族と平民の違いがあり、父系で継承されたらしい王が祭られていたので、この点では旧大陸の身分制に近いと思われます。
肝心の私権意識についてはどうか?
古代アメリカ文明でも殺し合いの史実はたくさんでてきますが、旧大陸のように氏族集団が徹底的に破壊され、私権獲得が唯一の生きる道であったような意識を示す史実は見つかっていません。 例外として、アステカの守護神が母集団を皆殺しにし、一族を引き連れて新部族を起こす神話がある程度だと思います。
冒頭に書いたように、疑問は、古代アメリカ文明においても私権闘争→私権社会に突入していったのか、そうでなかったのか?という点にあります。
古代アメリカだけでなく古代文明全体を読み解くための疑問として、ここに参加しているみなさんから史実や分析を出して是非参加してください。
by tamura
投稿者 nandeya : 2008年05月01日 TweetList
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