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2009年04月18日

アメリカ文明の基層を探る~最古のメソアメリカ文明[サン=ロレンソ]~

古代アメリカシリーズ中間整理にある「都市国家が出来たのはなんで?」がテーマです。
今回は、 「モンテ=アルバン」よりもさらに古い「サン=ロレンソ」遺跡を調べてみました。(どちらもメキシコです)
●文明以前のメソアメリカ
メソアメリカでは、5000年前位から住居跡とみられる遺跡があちこちで見つかっており、3800年前頃からは土器も見つかっている。住居は木と土で作られており、土器はヒョウタンの形をしたものが多く、地域や時期によって形態に違いがある。
日本の縄文時代と似た集団、社会構造だったのではないだろうか?
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メソアメリカの土器   
図版はこちらからお借りしました。
●3200年前~2900年前 オルメカ最古の「サン=ロレンソ遺跡」
ところが、これらの住居跡遺跡とは明らかに異なるものが遺跡がある。3200年前に「サン=ロレンソ」をはじめとしたメキシコ湾岸低地に興ったメソアメリカ最古の文明「オルメカ」である。オルメカの名は現地の言葉で「ゴムの地」に由来する事が示すように、一帯は熱帯雨林地域(ジャングル)である。

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サン=ロレンソの遺跡は、オルメカ文明の最も古い時期のもので、「人」や「動物」を象った大小様々の精緻な石像(鉄器なしで彫られている)が数多く作られている。また、「絵文字」や「数字」、「暦の記録」もある。
この暦や文字、彫刻や神様の様式は、それまでの住居跡や土器類にみられる実用的な芸術とは明らかに異なり、かつ、これらの様式が後のモンテアルバンやティオティワカン、マヤなどに広く伝播していった事からすると(文明と呼ぶかかどうか?は別にして)、それまでの住居跡遺跡とは異なった、新しい社会構造をもった組織体の遺跡である事はまちがいない。
↓オルメカの石像(ジャガー)
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↓オルメカの石像(半人半ジャガー)
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写真は、 「不思議館~古代の不思議~」さんからお借りしました。
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_2_f.html
↓オルメカの石像(巨大頭部:16個発見されている)
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↓オルメカの石像:(変形した頭部をもった人々の会議:この状態で埋設されていた)
【注:これはサンロレンソ遺跡ではなく、後のラベンダ遺跡のもの】
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写真は、ブログ「メキシコ原色模様」さんからお借りしました。
●サンロレンソ=高台
オルメカ文明はその精緻な彫刻に目を奪われがちであるが、この文明の本質はその立地と土木事業の巨大さにあるように思う。
これらの石像が出土したサン=ロレンソは川を見下ろす高台で、その大きさは巾800m×長さ1,200m、高さは50mある。平面形は後の文明にあるような幾何学形態ではなく、鳥の姿になぞらえる学者もいる。
高台は、元の自然の台地の上に約7mの土盛りを行って頂上部を平坦にして築かれたもので、高台上には200戸程の住居跡があり、中央部分には南北軸をもった基壇や土塁のようなものがある。また、台地上には貯水用と見られる多数の池と、土盛りの際に埋められたフタ付きU字溝(玄武岩製)が170m程度が見つかっている。
高台の周辺地域は、川の氾濫原で、周期的に洪水に見舞われ川筋は何度も変わっている。
主食のトウモロコシは、ここで焼畑によって生産されていたと考えられている。(ゴミ捨て場からは、魚の骨と家畜化された犬の骨も見つかっている)
●なぜこの高台は築かれたのか?
建設に際して「貯水池」や「排水溝」の技術が使われ、「暦」の記録もある事から、周期的な川の氾濫と長きにわたって闘ってきた集団がその建設に係わっていたはずである。川の氾濫と安全な居住という矛盾した問題をこの高台を築く事で克服しようとしたのではなかろうか?
●では、なぜ土盛りなのか?
土盛りが行われる以前の自然台地の地層からも住居跡が発見されている事から、土盛り以前から(小規模ながら)ここに人々が居住していた事がわかっている。
そして、土盛り後には200戸の住居があった事から考えると、多人数が居住できる場を作るという目的があった事は間違いない。
何のために多人数の居住地を作ったのか?
農業によって狭い地域に多人数が居住できるようになったからだろうか?しかしそれだけでは説明がつかない。集団はその適正規模に分派するのが常であり、人口が増えたからといって1箇所に大集団が出現するということにはならないはず。
さらに言えば、もともと農業を開発したのは食料維持のためだから、必要以上に開発してやみくもに人口が増えてしまうという事はありえない。(必要な事しかしないはず)
●高台建設を主導した集団と連合、同類圧力と神話
従って、多人数の居住地が必要だったのは、食料生産力アップによる人口増加が主な原因ではなく、この地域の自然圧力(氾濫原)を克服するためであったと思われる。
土盛りが行われる前には、氾濫時に、多くの集団がこの狭い台地に避難したに違いない。そこで、水(と石)の扱いに長けた集団が主導して大人数の避難が可能な高台の建設に至ったのではなかろうか?
(あるいは、そういう技術を持った渡来人(南米から?)があったのかもしれない)
また、一部の人を祭るようなオルメカの巨大頭部像は、単一集団を超えた統合の必要によって作られたものと思われる。
それは、複数の集団を従えた集団という連合体が発生したという事であり、その連合体には新たな同類圧力が発生する。
連合体はジャガー神や羽毛の蛇信仰などの話を生み出して同類圧力を止揚し、観念的にも統合されたと思われるが、長くは続かず、散や合体をしながらメソアメリカ文明を興していったのではなかろうか?

by tamura

投稿者 nandeya : 2009年04月18日 List  

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コメント

古代から現代まで、中国においても、日本においても、中央集権体制はほとんど機能しませんでした。
何度も試みては、崩壊していました。
その原因はご指摘の通り、中央にばかり様々な資源が集まり、地方が切り捨てられて来たからですね。
その結果、日本がたどり着いた先が、江戸のシステムだったのだと思います。

投稿者 たかし : 2009年5月20日 23:49

たかしさん、こんばんは
コメントありがとう。
>古代から現代まで、中国においても、日本においても、中央集権体制はほとんど機能しませんでした。
現在も中央主権体制ですが、特権にすがりつく官僚の暴走が年々ひどくなっています。彼らが人々から見放されるのも時間の問題だと思う。そう考えると、今の中央集権体制にしても、そんなに長いこと持たないように思います。
皆で次代のシステムを柔軟に考えていく必要があるのでしょう。

投稿者 Hiroshi : 2009年5月26日 21:24

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