「日本考古学の発祥」に感じたこと |
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2007年11月11日
アステカってどんなところ?
インカ文明、マヤ文明とくれば、次はアステカ文明ですかね。でも、アステカってどこ?
インカ帝国は、南米ペルーの山岳にマチュピチュを築きました。マヤ文明は中米のジャングルの真っ只中でした。今回はこれら2つの文明に引き続いて「アステカ文明」について調べてみます。
三つの文明の共通点や相違点がどのように生まれたのかを探求していくことで、国家統合や人間の原点に迫れたら面白いですね。
太陽の暦石 都があったテスココ湖
アステカ帝国の首都は「テノチティトラン」という都で、メキシコ中央高原の巨大な湖(テスココ湖)にある島を都市にしたものでした。
ご存知の方も多いと思いますが、この「テノチティトラン」は現在のメキシコシティーです。
この都市は、500年間にコルテス(スペイン人)によって破壊されてその上にスペイン領の都市が建設されました。(そして現在、メキシコシティーは人口2000万人に巨大化し、南北に65kmあったテスココ湖は埋め立てられていって2007年には5kmに縮小)
最盛期には人口30万人のテノチティトランを首都とする「アステカ帝国」はメキシコ中央高原を中心に太平洋からメキシコ湾にいたる周辺の部族500万人を支配する大帝国だったといわれています。(インカ帝国は100万人)
帝国の広さは実に東西に500km、南北に600kmにおよんだと言われています。本州の面積と同じくらいです。
位置はどのあたりかといえば、マヤの大都市「ティカル」から西に約1000km(東京から北九州程度)の位置にあります。テキサスから南に1200kmです。
アステカの都「テノチティトラン」は標高2200mの高地であり、緯度が低い割には涼しく、かつてはナラとマツの森林だった地域です。
主食はトウモロコシなどですが、湖と湿地を利用した高い生産性の農法があります。
>チナンパ農法が発達しとうもろこしや芋類・豆類などが栽培された。リュウゼツランを原料にしたプルケという酒も醸造した。交易が盛んでテノチティトランに集まった大量の商品は市場で売買された。貨幣としてカカオの実が使用されたという。
チナンパ(農法)は、沼地の表面の厚い水草層を切り取り、敷物のように積み重ねてつくった浮島の上に湖底の泥を盛り上げて作った湖上の畑のようなものを利用する収量の大きい農法である。アステカ時代のテノチティトランの周囲で行われていたことでも知られる。現在でもメキシコ・シティ南方のショチミルコに残っている。チナンパ農法は、たえず灌漑されると同時に、多くの養分を含んだ泥で栽培するので集約的に高い収穫を得ることができたし、あらゆる種類の作物を栽培することができた。
ここまで書くと高原の盆地の平和な桃源郷のような都ですが、実は・・・
アステカ族は、屈指の戦闘力で周辺部族を平定した「戦いの部族」だったのです。
遺跡や彫刻、石碑などからいろんな事がわかってきています。
どんな戦いだったのでしょうか?
テノチティトランの想像図
投稿者 hiroshi : 2007年11月11日 TweetList
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コメント
投稿者 Hiroshi : 2007年12月4日 23:57
紹介ありがとうございま~す。
やっぱり東日本に多いですね。
新潟県のは地元なので、2つほど行った事があります。
こんどは長野県のとか行ってみたいと思います。