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2008年06月01日

マヤ文明「国内での“お家騒動”」はあったのかどうか。あったとしたらその結果どうなっていったのか。

お家騒動というと、江戸時代の大名家の家督争いのことですが、
マヤの都市国家においても、どうも似たような事が起こったようです。
270px-IMG_2314.jpgコパンの石碑 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%91%E3%83%B3
マヤでは、優越国家、従属国家の存在が知られています。都市国家の数は最大80にもなったこともあります、確かに群雄割拠の言葉がぴったりですね。
さぞかし派手にやっていたのでしょうか?そしてその結果は?
その前に
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quiri4.jpgラテンアメリカ博物館より(キリグアの石碑・・マヤ最大といわれていますhttp://www.geocities.jp/bokata94/quiri.htm
さて課題のお家騒動ですがこんな事例が伝わっています。
事例1:コパン(優越国家)とキリギア(従属国家)
キリギアにはコパンの王 ワシャラクラフーン・ウバーフ・カウィールの後見の元で、カック・ティリウ・チャン・ヨアートは即位したと言う碑文があるように、元々コパンの地方臣下(従属国家)なのですが、738年に反乱をおこし、コパン王を殺した記録があります。
これは家来が主人を倒したと言う事です。
叉こういった仮説もあります。この二人は親子であったと言う説です。そうなると骨肉の争いでしょうか。
これだけをとらえると、まさに私権争いにしか見えません。
事例2:ドス・ビラスの例
650年ごろに建設されたドス・ビラスは、有名なティカルとまったく同じ紋章を使っていた事実がある事で有名です。
これは明らかにドス・ビラスを建設したのはティカルである証拠といわれています。但し別の資料ではティカルを追放された一族が建設したともあります。
後者と捕らえると支配者一族の内紛の結果のようですね。
このように、優越国家間だけでなく、同族同士の争いもあり、研究者によれば、ルネッサンス期のイタリア同様、絶え間ない分裂と抗争が続いた社会ととらえられています。日本の戦国時代とよく似ていると述べる人もいるようです。
確かに石碑の記録からは、さまざまな争いの記録しか出てこないのですが、・・・

事例1の事件はマヤ全体に大きな波紋を投げかけ、これがマヤ崩壊のきっかけだったという説の紹介です。
それは、まずマヤの都市は神聖王のカリスマ性にて統合されていた。が、この親子争いの結果は、そのカリスマ性を崩壊させたというのです。
それが、マヤ全体の崩壊につながったと言うわけです。
私権争いの結果であれば、カリスマ性よりも、その武力や財力が問題になるはずですね。
このように各時代ごとに統一と群雄割拠を繰り返してきましたマヤ。
しかし、
優越国家間の戦争も含めて、殺戮に明け暮れたとわけでもなく、序列の決定の為にしか争いが起こっていないように見えます。ここが旧大陸とやはり違うようです。
るいネットに「私権成立には掠奪闘争と私有婚の2つの条件が必要」http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=39638がありますが
この1つの条件である、略奪闘争があったのか?が気になります。
確かに争いはあったが、略奪闘争がきっかけになっていないのではないでしょうか。
以前武器の問題から論じたように、戦い自体も総力戦ではなく、支配者層だけの戦いに近いといえます。王の威厳を守るないしは拡大する為の戦い。それだけなら、武器の性能への要求もたいした物にならず、だから鉄器がなかったのも納得です。
つまり、略奪闘争がなかった為に、富と武力の格差拡大がおきにくく、その為群雄割拠の状況が続き、ひいては、明確な序列統合国家が出来なかったといえないでしょうか。

投稿者 dokidoki : 2008年06月01日 List  

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