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2009年05月16日

「アメリカ古代文明の基層を探るシリーズ」でわかってきた事と、わからない事。

このシリーズでは、
1.人類がアメリカに渡ったのはなんで?
2.狩猟生産から農業に転換したのはなんで?
3. 文明が興ったのはなんで?
の3つのテーマを扱っています。 🙄
1.は、 「人類が新大陸に渡ったのはなぜか?」でだいたいわかってきたのですが、2.「農業」と、3.「文明」はわからない事ばかりです。
みんなで「 🙄 なんで?」を共有できたら幸いです!
↓こちらを押してから、続きを読んでくださいね。
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●2.農業への転換はなんで?(文明との関係は?)
第一に、
農業を基盤とした現代社会に生きる私達からみれば、農業の発見とはあらたな飛躍を可能にした輝かしい出来事です。だから、農業を知らない後進国の部族に農業を教えにいったりしています。
しかし、狩猟や採取漁労生産で共同体を営んでいた遠いご先祖の立場に立ってみると、農業は、面倒で手間がかかる上に自然環境を破壊する生産様式であり、好き好んでやるものではなかったように思われます。では、なぜ農業生産に転換したのでしょうか? この疑問は、アメリカに限らず人類全体の変化をみる視点が必要です。
次に、
歴史の教科書では、「農業」→「文明・国家」という因果関係で結ばれて説明されています。確かにそういう順番で興っているし、狩猟や採取漁労生産のままで登場した文明や国家は例がありません。
しかしそこに因果関係があるのでしょうか? 「灌漑の必要」は文明や国家の必要条件にはならないと思います。
  気 候 変 動 → 農   業
               ↓↓  ↑↑
  私 権 闘 争 ⇒ 文明や国家(東・西アジア)

という事も考えられます。
しかし、私権闘争がないと思われる古代アメリカ文明はどうやって成立したのでしょうか?
今後、このあたりを追及したいと考えています。
●3.文明が興ったのはなんで?
アメリカでは、(恐らく気候の変動によって?)狩猟生産から採取生産や農耕生産に変化し、その後、5~3000年前頃からは、あちこちで、単なる住居ではなく、精緻な彫刻やレリーフ、大型の石像などを伴った都市的な遺跡や神殿的な遺跡あるいはピラミッドのようなものが作られるようになりました。これらを古代アメリカの文明の発祥と称しているのですが、これは、単一集団からなる社会が、複数の集団が統合された国家的なものに変化したからではないかと推測しています。
ではなぜそうなったのか?
当時の外圧の変化から原因構造を推定して仮説を立てるのが目的です。
★これまで紹介された事例と仮説
<南米(アンデス)>
●カラル(古代アンデス)4800年前頃
●コトシュ(古代アンデス)3800年前~2100年前
●チャビン(古代アンデス)2900年前~2200年前
●クントゥル=ワシ(古代アンデス)3000年前~2000年前
*いずれも神殿のような巨大建造物
●モチェ(古代アンデス)2000年前~1300年前
*神殿のような巨大建造物
*見せしめと思われる人物壁画が描かれる

<北米(メキシコ)>
●サン=ロレンソ(オルメカ)3200年前~2900年前
*高台の造成と精緻な石像、巨大頭部像
 洪水が起こるジャングルでの焼畑農業
          ↓↓
 技術を持った部族が他部族を統合(救済?)
          ↓↓
      高台の建設

●モンテ=アルバン(サポテカ)2500年前頃
(テオティワカンも同様か?)
*要塞か神殿のような巨大建造物
*見せしめと思われる人物レリーフ石板が刻まれる。

 
 盆地内での複数部族    他部族から
  の緊張関係     盆地(農業)の防衛の必要
      ↓↓        ↓↓
   力に勝る部族が他部族を従える
          ↓↓
      中央の高台の整備

★これらの事例(と後世のインカやアステカの状況)から、上記のような、ある程度の仮説は提起されているものの、「古代アメリカで文明が興ったのはなぜか?」(どういう外圧変化があったのか?)
という本質的な問いに対して、まだスッキリ答えられていません。
例えば疑問として、
1.いくつかの部族が協働したと考えてよいのか?
    🙄 単一集団が巨大化したとは考えられないのか?
       *単一集団が巨大化して文明化した事例は世界中で見当たらない。(本当?)
2.単一集団を超えた協働だとしたら、その必要性は?   
    🙄 治水など自然外圧に適応するためなのか?
    🙄 それとも、他部族からの防衛の為のなのか?
       *私権統合国家ではない事は、後の歴史からも推定できる。
3.しかし、一方で「見せしめ」的な記録があるのはなぜなのか?   
    :roll: 強い部族or首長を決めるための儀式なのか?
    :roll: それとも、掟破り者(又は集団)の処罰なのか?
      *皆殺しの略奪でない事は、後の歴史からも推定できる。
  などの疑問が残ります。
★残る疑問を解き明かしていくには、もっと理論的な追求と共に、事例が必要です。
実は紹介した事例はアメリカの遺跡の極一部で未だ調べていない遺跡事例なども多々あり、生産様式との関連という視点が抜けていましたので、これらを総合して紹介していきたいと思います。
多くのみなさんの記事やコメントを期待しています!!
by tamura

投稿者 nandeya : 2009年05月16日 List  

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コメント

5~6世紀の朝鮮半島は、もぐらたたき状態になったということでしょうか。やはり、まずは、足元=中央を軍備で固めてから中央集権化を目指すべきで、足元グラグラの段階ではつけこまれるだけで、結束=安定にはほど遠いということでしょう。完全に手順・段取りを誤ったということではないでしょうか?

投稿者 うららん : 2009年7月11日 21:20

☆うららんさん
そうですね。
仰るとおり、完全に手順・段取りを誤ったとしか思えませんね。
おそらく、あまりにも国が不安定な上に、外圧も高いという状況から、ニッチもサッチも行かなくなって、目先的に制度化してしまったといったところでしょうか。

投稿者 ひらっち : 2009年7月14日 22:30

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