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2008年06月03日

マヤ文明の婚姻制度

マヤ文明も、他の4大文明と同じく父系と嫁取り婚であった。
しかし、かなり緩い父系制度の様である。
マヤの場合、強力な支配者が現れてその全域を掌握し、単独支配するのでなく、紀元300年から900年の間各地にそれぞれの王を頂点とする「約40の王朝」が興り、それぞれは、互いに交易や戦争などの接触を保ちつつ推移した事が解っている。王朝間は同盟や敵対、服属などの複雑な関係によって結ばれていた。その中には、ティカルやカラクルムのように属国を従える大国があった。
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『マヤの宮廷写真』ナショナルジオグラフィック様よりお借りしました。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0708/feature01/gallery/22.shtml
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マヤの石碑には、実存した王をはじめとする支配層の個人の偉業に関した生誕、即位、戦争、崩御など歴史的情報が記載されており、この石碑よりマヤの王は、複数の后を持ち、父から息子への世襲制が多かった。その中でも兄弟間相続もあり、男性の継承者がいない場合まれに女王もいたようである。
また有力な王朝と同盟関係を結ぶ為の政略結婚も行われたようである。そして戦争の勝者は敗戦国の王女を連れ帰り、后にして服従関係を結んだりしていたようである。
反対に『マヤの石碑に682年8月(一連の敗戦により断絶したナランホ王朝を復興する為に、ドス・ピラス王朝の娘が)「6の空」女王としてナランホ王朝を再建したと刻まれている。』
これなどは、弱少国が有力国の娘を迎え女王と奉り国を再建した例である。
社会の統合手段として、強力な武力を用いるのでなく、交易・婚姻などを利用していたようである。
あたかも日本の群雄割拠時代のような様相を600年間も続けていたようである。

投稿者 ryou : 2008年06月03日 List  

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