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2008年01月25日

アステカの統合は掠奪支配ではなく、部族の連合による秩序化だった。

14世紀にメキシコ盆地に文明を築き、1521年にスペインに滅ぼされたアステカ帝国は、血と生贄を好む好戦的なメシーカ族が圧倒的な軍事力で周辺諸国を支配した帝国だったように言われていますが、本当はどうだったでしょうか?
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http://www.kufs.ac.jp/kufs_new/chalchuapa/terms.htm
京都外国語大学 エル・サルバドル総合学術調査プロジェクト  用語集より
PHOTO:「テレリアノ・レメンシス絵文書」にみる毛皮を着て弓矢をもつチチメカ人に攻撃される綿の服を着た文明人
アステカ帝国ができていったのは、メソポタミヤ文明の抗争のように、繰り返す掠奪闘争によってもともとの部族社会が完全に崩壊し、殺戮と支配が繰り返されるような状況だったのでしょうか?
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1.アステカの発祥は、放浪の部族が豊かな部族に受け入れられた事に始まる。
アステカは、西暦1255年ごろに、北から来た放浪の部族「メシーカ族」が、メキシコ盆地のテスココ湖にたどり着いた事から始まったといわれています。 メシーカ族は傭兵や農奴となることでなんとか受入れらたのが実態らしい。 当時、実り豊かなメキシコ盆地に比べ、北方は乾燥した山岳地帯で貧富の差があったと思われますが、メシカ族がいきなりメキシコ盆地に攻め込んでその支配者を殺してその王に成り代わったのではありません。
2.アステカの実態は三都市同盟。
有力な部族に服属し、その小島(ティノチティトラン)に都市をつくったメシカ族は、1428年、同じく服属状態にあった他の2部族と協働して、メキシコ盆地の有力部族でありメシカ族に圧迫を掛け始めていたテパネカ族を打ち倒しました。この三都市の同盟がアステカ本体であり、メシカ族だけが他の部族を蹴散らしていったわけでありません。
3.アステカは他部族を攻め滅ぼしたのではなく服属支配した。
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(出典:京都外国語大学 エル・サルバドル総合学術調査プロジェクト)
上の×はアステカの連合を示し、中央のサボテンにとまる鷲の絵は首都テノチティトランを示す。
そこは四地区に分けられ10人の首長たちが描かれる。
下部には初期の戦いの様子が記されている。

アステカは、日本の2/3位の領土を支配していましたが、他の部族を攻め滅ぼして征服したのではなく、実際は服属支配しているだけだったようです。 
また、領内に服属関係にない小国もあり、西洋的な支配でみると危険きわまりない状態なのですが、そのまま攻め滅ぼさずにその状態で残していました。
また、アステカを攻め滅ぼしたコルテスは、その記録(アステカを滅ぼす作戦)で、アステカは、「いくつもの民族集団がパッチワークのようにつなぎ合わさっていただけのモザイク国家」だと評してます。
★アステカは、征服を繰り返す事によってその領土を広げていったのではなく、部族連合の範囲を広げ広範な地域を秩序化したというのが実態でした。
4.メシカ族も言語は同じ
メソポタミヤの抗争では、言語が違う(従って相手と共認関係で作りにくい)者の間で情け容赦ない殺戮が起こっていますが、北方からメキシコ盆地にやってきて支配したメシカ族はそうではなく、メキシコ盆地の諸部族と同じく「ナワ語」を使っていました。だから支配の範囲を広げる場合、相手を徹底的に殺戮するのではなく一定の戦いによって服属関係が成立する状況だったと考えられます。

投稿者 nandeya : 2008年01月25日 List  

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