縄文探求シリーズ【縄文時代の風習】~なぜ抜歯が行われたか~ |
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2011年01月22日
日本列島ではなぜ多様な人種が存続したのか
日本列島へは、後期石器時代にC3系統、O系統のヒト集団(移動性狩猟文化)が、新石器時代にはD2系統(縄文文化)C1系統(貝文文化)およびN系統のヒト集団が、金属器時代以降にはO2b系統、O2a系統のヒト集団(長江文明)、またその他、O3系統(黄河文明との関連)O1系統(オーストロネシア系)などの集団が渡ってきて、現在までそれぞれの集団を維持してきました。このように日本列島は非常にDNA多様性が高い地域で、それもかなり遠隔なヒト集団が現在も共存しているという世界的にも珍しい地域です。
<日本>
C1 C3 | D1 D2 D3 | N | O1 O2a O2b O3
アイヌ – 13 | – 88 – | — | – – – –
青森 8 – | – 39 – | 8 | – – 31 15
東京 1 2 | 1 40 – | — | 3 1 26 14
静岡 5 2 | – 33 – | 2 | – – 36 20
徳島 10 3 | – 36 – | 7 | – – 33 21
九州 4 8 | – 28 – | 4 | 2 – 36 26
北琉球 4 – | – 39 – | — | – – 3 16
南琉球 – | – 4 – | — | 67
<朝鮮・中国>
C1 C3 | D1 D2 D3 | N | O1 O2a O2b O3
朝鮮民族 13 | 6 | 3 | 3 – 30 40
漢民族(華北) 5 | | | 2 – 66
チベット 3 | 16 33 | | – – 33
漢民族(華南) 5 | | | 15 30 – 33
漢民族(台湾) | | | 11 7 – 60
台湾 1 | | | 69
単位は全てパーセント
<引用>
リンク
ここからお借りしました。
るいネットの 「242846 日本列島ではなぜ多様な人種が存続したのか」 田野健氏
の投稿から紹介します。
よろしくお願いいたします。
同じく崎谷氏の著書「DNAでたどる日本人10万年の旅」より日本列島に定着した各系統の特徴と、その分布を見ていきたい。
なぜ日本にこれほどのDNAの多様性が温存できたのかは大陸の戦乱史と比較して見ていくと明らかになってくる。
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■日本列島では維持できた高いDNA多様性
日本列島へは、後期石器時代にC3系統、O系統のヒト集団(移動性狩猟文化)が、新石器時代にはD2系統(縄文文化)C1系統(貝文文化)およびN系統のヒト集団が、金属器時代以降にはO2b系統、O2a系統のヒト集団(長江文明)、またその他、O3系統(黄河文明との関連)O1系統(オーストロネシア系)などの集団が渡ってきて、現在までそれぞれの集団を維持している。このように日本列島は非常にDNA多様性が高い地域である。それもかなり遠隔なヒト集団が現在も共存しているという世界的にも珍しい地域である。
これに対してユーラシア大陸東部に目を転じて見ると、そこには民族の存亡をかけた凄まじい戦争の歴史が大幅にDNA地図を塗り替えた事になる。まず旧石器時代には東アジアにおいても狩猟採集の民族が広がっていたと思われる。それはおそらくインド経由で東アジアに達し、北上してきたC3系統の可能性が考えられる。今でもC3系統の末裔はシベリアの地の少数民族、先住民として残り、主に狩猟採集の生活を送っていた。
しかし東アジア東部においてシベリアやモンゴルなどを除く華北、華南、東南アジアにおいてはC3系統の比率は非常に低い。これはその後に膨張してきた別のヒト集団によって少数者へと追い込まれていったからではないだろうか。
また、D系統についてもその分岐の時期(13000年前)の推定値によると東アジアにもっと拡がっていた可能性が考えられる。しかし今では東アジア各地や朝鮮半島ではD系統は極めて稀で、この日本列島に最大の集積地点が残り、また遠く離れたチベットでD系統が存続するという事態に追い込まれている。両者を分ける広大な地域には後に別のヒト集団が割り込んでいたことが予想される。
このC3系統、D系統を圧迫してそれらを隅に追いやったのがO系統である。その分岐時期(17000年前)や移動の開始時期(8700年前)の推定値は新石器時代におけるO系統の拡大を示している。
漢民族と関連するO3系統は東アジア北部の華北、黄河上流域に端を発して次第に南へ東へと拡大していった事が指摘されている。O3系統の拡大は黄河文明の拡大を意味しており、長江文明として繁栄していたO2系統の集団を圧迫した。O3系統ヒト集団による先住系集団の圧迫・壊滅は朝鮮半島でも同様で、縄文文化を担ったとされるD2系統は朝鮮半島では壊滅している。
これらとは対照的に日本列島には東アジアの生存競争に破れたD系統およびO2b系統が非常にたくさん存続している。特に新石器時代のヒト集団の名残として貴重なD系統が世界的にも非常に高いレベルで今も日本列島の中心を担っている事は、日本列島の固有性を考える上で非常に重要であると思われる。
さらに日本では少数になっているが、今でもc3系統、Q系統、N系統、C1系統が存続しており、こうしてみると、日本列島には東アジアの古い歴史に関わる貴重な人々が今でもそのDNAを保存することができたこと、時代ごとに東アジアの変動を表すヒトの避難場所として古いものから新しいものまで重層したヒト集団の複雑な構造を示している事などの点で、貴重な地域であると考える事ができる。
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崎谷氏のこの記事によれば、東アジアにはかつて多様な系統のヒト集団が気候変動の度に登場し、複層してきたが、やがて黄河文明を興したO3あるいはその前の長江文明を築いたO2bの集団による圧迫、拡大を受け、それ以外の小集団は方々へ散在したとされている。集団間の圧迫の理由は時代的に見ても単に戦乱だけではなかったと思われ、ウィルスへの対抗性や寒さや乾燥への適応力だった可能性もある。いずれにしても日本列島へ渡来したのは、それらの外圧から逃れてきた民であった事は事実のようである。
次の図は、mtDNAの解析から作成された系統図と、Y染色体のDNAから作成された系統図を並列して表示したものです。mtDNAは母親経由でY染色体は父親経由です。現時点では1対しかないY染色体を追いかけるほうが精度が高く、mtDNAについては23対あり、その何十倍も精度は低いものと思われ人類の足跡を追いかけるデーターとしての信憑性には乏しいのではないかと思われます。
画像の確認
ここからお借りしました。
投稿者 norio : 2011年01月22日 TweetList
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コメント
投稿者 Hiroshi : 2011年5月22日 19:14
今から2400年程前でしょうか。天照大神(飛騨王朝スメラミコト第35代)の頃、飛騨日本原人による全国の海岸線の開拓や防衛体制はほぼ確立され、万一のことがあれば、すぐに飛騨王朝に連絡されるまでになっていました。その頃、筑紫(九州)では中国の揚子江辺りから沖縄を通って九州南部に上陸した隼人族(モンゴル族と推定)と朝鮮東北部のモンゴル族が山間部に勢力を持ち、更に鹿児島笠沙岬辺りに本拠地を置く塩土族(インド南端のタミール語民族と推定)の3外国勢力の三つ巴の戦が繰り返されていました。
更に、塩土族の枝分かれとみられるコオロギ族が九州内陸高千穂辺りでインドの水稲作りをしはじめていました。更に飛騨が開拓した出雲にはアルタイ系モンゴル民族のオロチョン族がたたら製鉄で鉄製剣を作っていました。
北海道から小数の津保化族や大陸から来た阿蘇辺族、以前からの純日本人な度が東北に来て津軽五所川原十三湖辺りの安日彦・長スネ彦らが築いた大和国で共存していきました。
このように太古には色々渡来民族はありましたが、その数は微々たるものです。その後、新羅人が出雲に渡来し、九州にも熊襲として襲来しました。若干の秦氏もきました。
飛騨地方はATLウィルスの感染率がダントツに低いのです。純日本人ですから当たり前です。
投稿者 Misaki-1167 : 2014年8月17日 20:24
印欧語族の起源と戦争の関係がよく分かります。
この辺はいまも白人系とセム(イスラム)系の攻防が続いてますが、古代に戦争が始まった頃から同じように戦っていたのには驚きです。
それに比べると、白人が表れる前までの東アジアは比較的平和だった気がします。
>印欧語族をはじめ、山賊がどんどん増えていく過程は次回に続きます。
また次回楽しみです。