| メイン |

2007年05月29日

西アジアと日本の農耕の歴史の違い

こんにちは、simsasanです。
前回の「縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳」に続いて、今回は、日本と比べて農耕が先に発達した西アジアはどうだったのか?比較してみました。
先ず、農耕の歴史に入る前に農耕と栽培の違いは何なのか? 
「るいネット縄文前期の稲栽培」(細田さん)が分かり易く説明していますので、以下引用します。
>人類が採取・狩猟という生業様式(適応様式)を開始するのと同時に、植物の栽培や動物の飼育は方法としては見出されます。採取・狩猟時代の人類は、食料獲得の方法として風土に応じて狩猟・採取・漁労・栽培のいずれかあるいは全てが併用しているのが通常です。日本では三内丸山の栗林の菅理栽培が有名ですし雑穀の栽培は各地の縄文遺跡にその痕跡が発見されています。
一方農業(や牧畜→遊牧)という様式は、主要な食料のほとんど全てを人工的な栽培(や飼育)に頼るという様式で、相当大がかりな土地や土木施設を必要とします。そのような人工的な(多大な労力を必要とする)生産様式が必要とされる背景には、人の数がその居住する周辺の自然の生産力を超えてしまうという事態があると考えられます。その理由としては、同類緊張圧力による一定地域への集住や短期的な特殊寒冷期に移動もままならなくなった部族の生き残りのため等が考えられます。

では、具体的に古代、西アジアと日本では、どのような栽培→農耕の歴史をたどってきたのでしょうか?
知りたいっと思った方は、ポチっとお願いします。!
Blog Ranking  にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


08-01.gif
図1 西アジアと縄文の先史文化比較年表
図1で分かるように、日本で縄文時代とひとくくりにされますが、西アジアでは旧石器時代から新石器、銅石器時代はもとより金属器の時代にまで及んでいます。社会の体制でいえば、狩猟採集民から、農耕牧畜村落、さらには都市や帝国の時代まで駆け抜け、1万年もの間、縄文という一つの時代でくくって考えられるほどの安定性、継続性がみられる日本列島の場合とは、きわだった違いです!
西アジアでは、定住は1万2500年前頃に始まっていますが、ここでは、穀物収穫用の石鎌や、製粉具である石皿、石鉢、石杵が大量に発見され、穀物の貯蔵が定住を可能にしたことを物語っています。
農耕は、1万300年前頃に始まり、これ以降が新石器時代とされています。主作物はムギ類とマメ類であり、やや遅れて、ヤギ、ヒツジなど中形有蹄類の飼育が始まります。したがって、新石器時代の前半は穀物栽培と野生動物の狩猟をくみあわせて生活しており、後半になってようやく穀物栽培と家畜飼育にもとづいた本格的な食料生産が始まったことになります。そうした経済の転換が完成したのは、8000年前くらいで、それは、土器が使われ始める時期とほぼ同じ頃にあたります。
そして、新石器時代がおわり、金属の使用が徐々に一般化しつつあったのが銅石器時代です。紀元前4千年紀中頃になると、城壁、神殿、道路、排水路などが計画的かつ密集して建造され、住人は行政・宗教地区、軍事地区、工房地区、居住地区などにわかれて居住しており、政治的権力をもったリーダーを頂点とする階級社会が既にこの頃登場します。以降は、みなさんが良く知っているとおり、メソポタミア文明の始まりですね。
さて、一方の縄文は?
農耕については、クリの管理、栽培、あるいは、エゴマ、リョクトウ、ヒョウタンなどの小規模栽培がなされていた証拠がみつかっています。さらには、イネすら栽培された地域があったらしい。
だが、縄文人の農耕は、採集、狩猟、漁労と組み合わせた生活で、殆どそれのみで生計を維持していた西アジア型の農耕とは大きく違っています。西アジアの新石器時代に匹敵する農耕が始まったのは弥生時代以降である。また、都市は、縄文時代にはついに現れなかった。前期以降になると三内丸山遺跡のように比較的、大きなムラが出現するが、数千人から数万の人口を擁し、階級とフルタイムの分業を社会の基本としていた西アジアのような都市は発達しなかった。
ところが、類似している点が1点ある。縄文人の定住への移行は、一般に早期以降とされており、ここまでは、西アジアの定住移行時期と似ている。
西アジアで定住的な生活様式がうまれたのは、13000年前ごろから数百年続いたオールデスト・ドリアス期の気候乾燥・寒冷化がきっかけではないかと考えられている。つまり、晩氷期に進んでいた温暖・湿潤化にともなって旧石器時代末の狩猟採集民は、内陸ステップを含む広域に展開していた。ところが、その気候悪化によって、死海地溝帯周辺に集中するようになった。そこは比較的湿潤なため、疎林地域が残っていたからだ。そして人口集中によって生じた資源をめぐるストレスの増加が、集約的な穀物利用、その貯蔵、そして定住という新しい生業・集落システムの発生につながったと考えられるのである。
08-07.gif
写真4 死海周辺。
ナトゥーフ文化、初期農耕発展の舞台となった地域。
縄文時代の採集・漁労生活に同化すれば、農業は敢て必要ないことが、以下のサイトの内容からも分かります。
「狩猟から遊牧へ 採集から農耕へ」より引用
>一方森の民は、木の実やキノコ・根菜類などを採集し、昆虫の幼虫や森に棲む中・小動物、それに川魚などを捕食してきた。その過程において森の植生を徐々にだが食料や生活に役立つ、人工的植生に変化させていった。森の民は食べた果実のタネを住居の近くに捨てただろう。翌年そこから新しい芽が出て木が育ってくることを知った。囲いのつもりで切った枝で垣根を作ったところ、それが根付くことも知っただろう。
 そうした知恵から、農耕という「土地を傷つける業」の前に、今でいう「実生・差し木」など、園芸のプロトタイプを会得していった。たとえば、6000年~4500年前に栄えた縄文都市三内丸山では(DNA鑑定によって)主食としてクリを栽培していたことが明らかになっている。

まとめれば、
急激な気候変動からやむを得ず栽培→貯蔵→定住生活に変えていかなければならなかったところまでは人類は自然とのバランスを保っていたと考えられるが、1万年前から気候が安定し、自然も豊かになって農耕に頼る必要性がなくなったのにもかかわらず、急速に農耕を発展させていったのは、一般に学者はバブル化する人口を支える為と言われますが、逆に、農耕を手放せなくなった人々の意識≒私有意識が自然を破壊し、人工を爆発させるに到った原因ではないかと思います。

投稿者 simasan : 2007年05月29日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/05/226.html/trackback

コメントしてください

 
Secured By miniOrange