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2022年10月01日

もうひとつの日本「日高見国」

こんにちは。

今回は、日本国がどのように建国されたのか?その謎に迫ろうと思います。

 

日本国は元々2つの国に分かれており、それらを大和朝廷が統一したという説をご存知でしょうか?これは、中国の文献、日本書記等に書かれている説ですが、日本人のほとんどがそんなことは知りません(学校で教わることは絶対にありません)。

 

具体的には、「倭国(わこく)」と「日高見国(ひたかみのくに)」という2つの国に分かれていたというものです。そして、いつの頃からか、2つに分かれていたのがひとつに統一され、「日本国」と名乗るようになったというのです。

 

倭国といえば、「邪馬台国」や「大和朝廷に連なる原始的国家」などと連想できますが、その倭国と対立する日高見国という国があったという説を聞いてもピンと来ないですし、イメージが浮かばないですよね。

 

しかし、そういった記録が古代中国の正史『旧唐書』と『新唐書』に残されており、わが国でも、その説がいろいろなかたちで記録されているのです。

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古代中国の史書に記録される「倭国」と「日高見国」

古代中国の歴代王朝によって編纂された正史(史書)によれば、わが国にも国家の萌芽ともいうべき原始的な小国家が生まれていたと記録されています。その国が、「倭国」や「邪馬台国」といわれていたことは、よく知られている通りでしょう。わが国はもともと、倭国(大和朝廷と解釈されている)と日高見国(日本国という名前の起源といわれる)の2つの国に分かれていたというのです。そして、やがてひとつの国に統一され、「日本国」と名乗るようになったのだとされています。

 

「そんな説は聞いたことがない」というのが大方の意見でしょう。しかし、古代中国の史書『旧唐書』と『新唐書』の2つに記録されているため、頭ごなしに否定することはできないとも言えます。古代中国で編纂された『旧唐書』「東夷伝」の「倭国伝」には、以下のように書かれています。

「倭国は古の倭奴国(わのなのくに)なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世々中国と通ず。其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す」

 

「倭国は古の倭奴国なり」という記述を見れば、前漢王朝から「漢倭奴国王」と刻まれた金印を下賜された国の子孫と連想できます。そうなると、倭国は北九州方面に勢力を張っていた王国の子孫がつくった国ということになります。これが邪馬台国九州説ですね。

『旧唐書』では、これとは別に「日本国伝」という見出しが立てられ、次のような記事が載せられています。

 

「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰う。倭国自ら其の名の雅ならざるを惡み、改めて日本と為すと。或は云う。日本は舊小国にして倭国の地を併せたりと。其の人、入朝する者は多く自ら衿大にして實を以って對えず。故に中國、焉れを疑う」

 

わかりやすいように、整理して箇条書きにしてみよう。

 

(1)「日本国は倭国の別種なり」と書かれている。当時の中国にはその認識が定着していたと見え、宋代初期の『太平御覧』でも同様の記事があり、2つの国である旨が引き継がれている。

 

(2)「其の国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す」と、日本国という国号が生まれた由縁について説明されている。聖徳太子が遣隋使に持たせた国書の中で「日出づる国の天子、書を日没する処の天子に致す」と述べたことに通じる。

 

(3)さらに、国号命名の由縁について、「倭国自ら其の名の雅ならざるを惡み、改めて日本と為す」と記載されている。文化レベルが上がり、漢字の意味を理解するに従って「倭国も邪馬台国も、わが国を侮蔑した表現であることがわかってきた」ということである。

 

(4)そして、「日本は舊小国にして倭国の地を併せたりと」と書かれている。日本国が倭国を吸収合併したのだから、日本国と名乗ろうというのである。小国日本が大国倭国を併合したため、国号が日本国になったということだ。

 

(5)しかし、702年の遣唐使がその経過について皇帝に説明できなかったため、皇帝は疑って信用しなかったというわけだ。

 

この『旧唐書』が完成した945年の翌年には後晋が滅亡してしまったため、北宋になって改めて『新唐書』が編纂されています。この時から、それまでの『唐書』は『旧唐書』と呼ばれ、『新唐書』の編纂に当たって、当然ながら編纂者も交代していると考えられます。

 

そして、『新唐書』でも、ほぼ同様の記事が書かれているというのです。ただ、『旧唐書』では「小国の日本国が大国の倭国を征服した」と書いているが、『新唐書』では「倭国が日本国を併合し、日本国と名乗った」と、正反対の見解で記されています。しかし、いずれにしろ倭国と日本国に分かれて対立していた2国が統一され、ひとつの国になったという流れは、歴史的事実だった可能性が高いと言えるのではないでしょうか。しかし、なぜ国号が倭国から日本国になったのでしょうか?

 

古代日本の史書に記録される「倭国」と「日高見国」

まずは古代日本の正史『日本書紀』を見てみましょう。景行天皇27年2月27日条に、北陸および東方諸国の視察旅行を終えて帰国した大臣・武内宿禰(すくね)の報告で、驚くべきことが記されています。

 

「東(あづま)の夷(ひな)中に日高見国(ひだかみのくに)有り。其の国の人男(おのこ)女(めのこ)並に椎(かみ)結(わ)け身(み)を文(もどろ)けて為人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是を総て蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えてひろし。撃ちて取りつべし」

 

→「東国の田舎に日高見国がある。その国の人は髪を結い分け、体に入れ墨を施し、勇敢で強い。これをすべて蝦夷という。また、土地は肥沃で広大である。ぜひ、攻撃し奪い取るべきである」

 

なんともはや、勇ましい発言ですね。この報告に基づいて決行されたのが、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東国遠征であり、その結果を伝える記事が、景行天皇40年是歳条だ。

 

「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より還り、西南のかた、常陸を経て、甲斐国に至る」

 

「上総国から海路で日高見国入りした日本武尊が、国境近くで蝦夷の首領たちの降伏を受け入れ、日高見国から帰還した」と書かれていますが、武内宿禰が視察旅行を報告した景行天皇27年時には、完全な独立国だった日高見国が、その13年後には日本武尊によって征服され、大和朝廷の支配下に入ったということを意味していると考えられています。つまり、日高見国とは、後の陸奥国のことだったということがわかる。

 

しかし、「日高見国=陸奥国」ではないと考えられます。なぜなら、もうひとつ面白い文献があるからです。

 

■日高見国は東日本の「続縄文文化」だった!?

713年に編纂され、721年に成立した『常陸国風土記』という史書が残っています。これを、日高見国の謎を解く第3の文献として『旧唐書・新唐書』『日本書紀』の後に挙げて考えてみましょう。

 

『常陸国風土記』には、常陸国信太郡(稲敷郡の一部)について、「此の地は本の日高見国なり」と書いてあります。また、蝦夷征伐に向かった黒坂命(くろさかのみこと)という人物が同国多賀郡で病没し、その棺が信太郡に送られて来たことを「日高見国に到る」と表記しています。こうなれば、「常陸国信太郡=日高見国」だったと捉えるしかないですが、そう簡単ではないようです。

 

信太郡は、どちらかといえば常陸国では南寄りの地域ですが、前述の報告で、武内宿禰が「土地沃壌えてひろし」と言っていることに注目してみると、郡のひとつや2つを奪い取ろうとしているわけではないことが理解できます。

 

そうなれば、常陸国も陸奥国も含む広大な領域、つまり東日本全域に広がる壮大な国がイメージできます。そして、信太郡はその中心地となる場所だったと考えるのが妥当なのではないでしょうか。近くには古代の聖地・筑波山があります。その麓には、壮麗な都があっても不思議ではありません。日本武尊は、東国平定戦の際に銚子沖から鹿島神宮と香取神宮の間を通過して内陸湖に入り、筑波山の麓にある港から上陸したという言い伝えもあります。その場所を選んだのは、日高見国の本拠地だったからではないでしょうか。

 

やはり、大和朝廷とは別の国が東日本にあったと考えられます。特に対立していたわけではなかったのかもしれませんが、大和朝廷は国勢拡大のために「土地沃壌えてひろし。撃ちて取りつべし」と侵略宣言を発したのでしょう。その国を平定・併合した後、倭国と呼ばれてきた国名を日本国に改めたのではないでしょうか。そして、その語源が日高見国であったのかもしれません。

加えて前述の報告で、武内宿禰が「体に入れ墨を施し、勇敢で強い。これをすべて蝦夷という。」という記述にも注目してみましょう。思い出してください。縄文人は顔をはじめ、体に入れ墨を入れる風習があったことを。土偶にも入れ墨の跡が多く見られます。そして「蝦夷」という俗称に聞き覚えはないでしょうか。そうです。645年大化の改新で滅ぼされた「蘇我蝦夷」です。蘇我氏は、ものすごい悪者として現在の歴史では扱われていますが、本当に悪者だったのでしょうか?もしかしたら、東日本~北海道に色濃く残っていた続縄文文化を受け継ぐ縄文人の末裔(渡来人との混血はあったでしょうが)だったと捉えることはできないでしょうか?そして、その続縄文文化を残してきた国が、「日高見国」の正体なのではないでしょうか?

そんな仮説を考えてみると、なんだかワクワクしてきますね。縄文とのつながりが見え隠れする「日高見国」。今後改めて注目する必要があるかもしれません。

投稿者 asahi : 2022年10月01日 List  

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