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2010年10月27日

◆日本人の起源(5)~気候変動による人口推移の影響~

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>・南方系の古モンゴロイドが日本の北方,南方から流入し縄文人を形成した。
・古モンゴロイドの子孫=新モンゴロイドが、弥生時代に大量渡来してきた。<
前回の議論で縄文人がいつ・どのように形成されたのか?が大分すっきりしてきました。
今日は弥生時代の一歩手前、世界規模で起こった気候変動が縄文人にどのような影響を与えたのか!?
について見ていきたいと思います。
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◆人の動きを予測するには気候変動が重要なファクターを握る!

 従来、年代測定には「放射性炭素同位体」が用いられてきたが、これだと統計上の誤差は±100年。1000年前に大きな気候変動があったと言われても、それは900年前かもしれないし、1100年前かもしれない。人間の歴史は年単位で変わるのに、こんなアバウトな測定では、気候と文明の正確な関係は捉えられない……。
 しかし、1993年、私たちが福井県にある三方五湖のひとつ水月湖で発見した「年縞(ねんこう)」によって、状況は一変した。年縞とは、湖底に堆積した層が描く縞模様。春から夏に珪藻が繁殖してできた白い縞と、秋から冬にかけて粘土鉱物が堆積した黒い縞がセットになり、樹の年輪と同様、1対の縞が1年の時間を表す。年縞の中には、花粉やプランクトン、火山灰や黄砂などが含まれているため、それを分析することで、過去の気候変動を年単位で復元できる。

◆4200年前に起こった世界規模の気候変動によって何が起こったのか!?
この「年縞」によって、さまざまな新事実が明らかになりました。
詳しくは「世界規模の気候変動が4200年前に起きている」を参照下さい。以下、抜粋です。

・7000年前は現在より2~3度気温が高い「気候最適期」である。
・西アジアでは5700年前から寒冷化、乾燥化が進み文明が誕生した。
・東アジアでは西アジアより500年気候のサイクルが早く、6300年前には長江文明が誕生している。
・4200年前の気候悪化により古代文明は崩壊、人の移動、侵略が増加した。⇒(これが中国江南地方からの環境難民の移動時期に当たる)
※この4200年前には
東地中海で干ばつ~大規模なエルニーニョ現象が起きてBC2200年以降300年に渡る大干ばつが起きる。(ブライアン・フェイガン 古代文明史と気候大変動)
エジプト古王国滅亡(4200年前)
アッカド王朝(4350年前~3700年前)
バビロニア王朝(3830年前~)
龍山文明(3700年前~3400年前)
安田氏の記述によると4200年前頃(BC2200年)が各地での民族移動の時期に当たる。日本ではこの少し前の4500年前に三内丸山遺跡が消滅している

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着目すべきはやはり、4200年前の気候大変動!

★4,200年前:気候の寒冷化→乾燥化
→徐々に様々な部族が長江流域に移動していく。
→黄河の地から遊牧・掠奪部族が侵入→長江流域が戦地へ
→江南人始め、長江の地を追われ→長江文明崩壊
⇒ある部族は南下し、ベトナム、ミャンマー等の地へ
⇒長江流域で航海に長けていた部族が日本あるいは南朝鮮へ

「長江文明崩壊の時⇒日本へ渡来?!」より引用。
 といったかたちで長江文明・それに伴い農業(稲作)が日本にも伝来されてきました。しかし、この段階では稲作は主要な生産様式として広く普及していないということも確認されています。では、縄文人が稲作を選択しなかったのはなぜでしょうか?
◆縄文時代に稲作が普及しなかった訳

1.長江流域からやって来た人の数が少なかった。そのために、稲作が広く普及することがなかった。
2.稲作農耕を営まなくても、縄文人は狩猟・漁撈・採集生活で豊かな暮らしを実現していた。
 したがって、手間のかかる稲作農耕を行う必要がなかった。
(当時日本列島にはすでにブナやナラなど落葉広葉樹の森が広がりつつあり,食料が森や川から得られやすかった。 農業を行わない狩猟採集民が食物生産に費やす時間は、成人労働者一人当たり平均三時間から四時間である。残りの時間は、遊んで楽しむことができる。)
3.縄文社会は墓の副葬品に顕著な違いがないことから、貧富の差のない社会であったと思われる。それに対し、稲作という初期農耕社会は生産性が低く収量も不安定で、したがって、全ての人々に豊かで平等な生活を保障するものではなかった。
4.イネを栽培するには、灌漑や水田開発など、多人数での共同作業が必要であり、必然的にリ-ダー層と被支配者層という階層分化を生む。さらに大きく天候に左右されるため、豊穣儀礼とそれに伴う生贄というような犠牲を伴う。

「長江文明の伝播と水田稲作を拒否した縄文人」
「縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳」より引用。
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稲作が広く伝搬しなかった理由としては、主要には上記4つが考えられそうです。個人的には2番の生産様式を劇的に変化させる必然性が無かったことが最も大きな要因ではないかと思っています。
 以上のことから、気候変動による人口移動は世界規模での影響をもたらしたことが解る。それは日本においても例外無く、特に「黄河の地から遊牧・掠奪部族が侵入→長江流域が戦地となり稲作が日本に伝来」といったあたりは大きな影響をもたらしたのではないでしょうか。
「稲作の伝来自体を拒むことは無いが、生産様式のシステムまでは変えなかった」という曖昧な対応をするあたりが、受け入れ体質を色濃く持つ縄文人らしいところでもあり、現代の日本人にも精通するところではないかと感じます。

投稿者 dai1028 : 2010年10月27日 List  

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