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2022年02月01日

【縄文再考】 日本列島の稲作起源(稲作は舶来の食糧生産技術)

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みなさん、こんにちは!

 

縄文時代の後半・晩期から、稲作が既に日本列島に流入していたことが当ブログの追求でも明らかになってきました。さらに詳しく調べていくと、初期に流入した稲は、陸稲耕作に適した品種であったこともわかっています。

 

しかし、本当に豊かな稲作が定着するには、水稲耕作が必要です。水稲耕作には、その技術が必要になりますから、ここに大陸からの渡来人≒弥生人の存在が見えてきます。そして、その変遷が縄文時代から弥生時代への移り変わりとも言えるでしょう。水稲は人が手をかければかけるほど豊かに実りが得られます。この水稲耕作の普及による食糧の増産こそ、強大な力を持つクニの誕生へとつながったと考えられるのではないでしょうか。

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日本列島に自生しない稲「ジャポニカ」の流入ルートは?

神話学には、「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれるものがあります。これは、インドネシアのセラム島に居住するマーレ族に伝わる神話から命名されたもので、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つ。死んだ女神の体から穀物が生じる食物起源神話であり、ポリネシアやメラネシアなどの南洋世界に広く分布しています。

 

同じような神話が、日本の記紀神話にも登場します。

古事記』では、スサノオがオオゲツヒメを殺害し、この女神の遺骸から蚕、稲、粟、麦、大豆などが生じたと記されています。『日本書紀』ではツクヨミがウケモチを殺害し、この遺骸から稲などの穀物が生じたと記されています。殺した神、殺された女神の名は両書で異なりますが、女神の亡骸から穀物が生じる点は共通しており、神話学ではハイヌウェレ型神話の類型と位置づけられているそうです。この発想、南方の文化と日本とのつながりが透けて見えてきますね。

 

しかし実際は、稲は外来の作物です。古代の日本列島に稲は自生していなかったことは、既に明らかにされています。ゆえに、稲は日本列島以外の人々によってもたらされたものです。

 

「稲」とひとくくりにしていますが、実際は「ジャポニカ」と「インディカ」の2種類の品種に大別されます。このうち、日本列島に入って来たのは「ジャポニカ」です。ジャポニカには、水稲耕作に適した「温帯ジャポニカ」と陸稲耕作に適した「熱帯ジャポニカ」があります。

 

このうち、「熱帯ジャポニカ(陸稲)」は縄文時代には流入していたらしく、岡山県岡山市にある朝寝鼻貝塚(あさねばな)の縄文時代前期の地層から、稲の痕跡が大量に検出されています(プラントオパール:イネ科植物の葉などの細胞成分)。また、青森県八戸市の風張遺跡(かざはり)では、なんと縄文時代後期~晩期の3000年前の米粒(炭素米)が2粒検出されています。風張遺跡は、有名な「合掌土偶」が発掘された遺跡でもあります。

 

「温帯ジャポニカ(水稲)」は中国大陸の長江中・下流域を起源地とし、「朝鮮半島経由で伝来」 or 「中国大陸の江南地方から伝来」 or 「南西諸島伝いに伝来」など、複数の説が唱えられていますが、考古学や植物学などの分野では、江南地方からの伝播説が有力視されているようです。いずれの説も、九州地方からの流入が有力そうですね(将来、沖縄の遺跡から発掘されれば少し様相は変わりそうですが)。

 

鍵を握るのは、「遠賀川式土器」

縄文時代晩期の遺跡である福岡県の板付遺跡(いたづけ)や、佐賀県の菜畑遺跡(なばたけ)からは、水田跡が検出されています。当時の縄文人は水稲耕作の技術を持っていなかったと考えられますから、この新農業の担い手が大陸からの渡来人だったのは間違いないでしょう。今日「弥生人」と呼ばれる人々のことです。

 

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では、水稲耕作は伝播後にどのように各地に広がったのでしょうか。この謎をひも解くうえで有力視されるのが、遠賀川式土器(おんががわ)と言われています。遠賀川は福岡県中央部を北流して響灘(ひびきなだ)に注ぐ川で、昭和初期にこの川底から紋様が豊富な弥生土器が見つかり注目されたそうです。遠賀川式土器は弥生土器の中でも最古級のものです。遠賀川式土器が見つかる集落跡からは、米そのものはもちろん、農具類なども出土しています。つまり、遠賀川式土器の出土は、水稲耕作が行われていた農村の証とも言えそうです。

 

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遠賀川式土器は西日本に広く分布していますが、東日本では中部・東海・東北に点在するのみで、関東からはほとんど見つかっていません。これは関東地域の縄文人が、長らく水稲耕作の受け入れを拒んでいたことを示唆すると言えるでしょう。

 

ただし、本州の北端では水稲耕作を早期に受け入れたらしく、青森県の垂柳遺跡(たれやなぎ)砂沢遺跡(すなざわ)では、遠賀川式土器と水田跡が検出されています。しかし、当ブログでも紹介している通り、東北地方では水稲耕作が永続的に行われた訳ではありません。垂柳遺跡では300年間、水稲耕作を続けていた痕跡がありますが、洪水被害により水田が水没した後は水稲耕作を放棄し、狩猟・採取・原始的農耕を主体とした縄文的生活に戻っていることがわかっています。

 

また、平安時代までは温帯ジャポニカ一辺倒でなく、熱帯ジャポニカが各地で一定の栽培がなされていたことも判明しています。日本列島の稲作を巡る謎は、まだまだ深そうです。

投稿者 asahi : 2022年02月01日 List  

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