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2010年02月10日

「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」~第1回~古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(前半)

こんばんわ!先週からスタートした新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」の第1回をUPします。
市場経済のベースは情報とそれを支えるネットワークです。日本は奈良時代には市が作られていることから、かなり早期に市場が誕生しており、その基盤は弥生時代さらには縄文時代にあったのではないかと思われます。日本の市場の誕生はいつか、その前段階の形態はどのようなものか、第1回はそれを追いかけていきたいと思います。
日本人は情報や文化・技術が海外から入ってきて国内に広がる速度が非常に速いという特徴を持っています。これは今日のように新聞、TVの媒体通じて情報が瞬時に広がる以前からわが国の特徴として有していたのではないかと思います。
ひとつの事例ですが、網野善彦氏の著書によると水田稲作の技術が伝播されて稲作文化は紀元前3世紀までに西日本に広がるまでわずか20年から30年の短期間で広がっていったと書かれています。
他の文献を当っても長く見積もって150年間で稲作は西日本全域に拡大伝播しています。これら伝播の速度は世界の他地域では見られないほど珍しく、まだ人口密度も高くない弥生時代初期においてすでに国内の情報ネットワークが形成され、十全に機能していたのではないかと思われます。
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ブログ「古代米を作ろう」さんよりお借りしました。
贈与ネットワークか交易ネットワークか
なぜこれほどまでに精密なネットワークができていたのか?
私は1万年に渡る縄文時代に形成された多様な贈与ネットワークの延長がそのインフラになっていたのではないかと推察します。
ポチッと押して続きを読んでください!
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縄文時代の交易を論じた学者に網野善彦氏が居ますが、網野氏の説は江戸につながる市場の原型に縄文時代の海や川を通じて繋がった古代交易ネットワークがあったと論じています。

網野史観では縄文時代とは自給自足ではなく互いに不足分を供給しあう交易を前提とした社会であったとされています。物々交換を前提とする交易と、友好の証として与え合う贈与は明確に区分しなければならず、網野史観には一定の違和感を感じています。しかしながら海洋民としての特徴を捉えた縄文史観は斬新で網野氏が言う交易を贈与の延長と捉えればその後の史観とも繋がっていきます。網野史観を参考にして縄文―古代ブログでこれまで追求してきた記事を紹介しながら縄文時代の贈与ネットワークを一旦まとめておきたいと思います。

まず最初にるいネットに投稿された贈与と交易の違いを一読してください。違いがよくわかります!
参考~贈与と交易の違い⇒「贈与」と「掠奪・収奪」と「交易(交換取引)」
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【贈与ネットワークの形成】
縄文時代は前期の急激な温暖化によってそれまでの狩猟生産から採取、漁労へ生産様式を変化、定住化が進み、集団規模の拡大が起きた。地域的には食糧に恵まれた東北・関東・中部地方で人口が増大し集団が隣接する事によって集団間での緊張圧力が生じ、贈与による緊張緩和システムが必要になったと思われる。隣接する集団は互いに貴重な物を送り合い、友好関係を築いていった。
<参考データー>
縄文時代の温度変化⇒縄文時代の海水面、気候変動グラフ
縄文時代の人口分布⇒縄文基礎情報/人口分布
縄文中期にはそれら贈与網を使って東日本各地に黒曜石、翡翠、天然アスファルト、岩塩などが行き渡った。
長野県で採取された黒曜石が遠く東北地方で発見されるなど、その距離は数百キロにも上り、あたかも交易ネットワークがあったかに見えるそれらの流通網も、隣接する集団間で贈与を繰り返す事で結果的に遠方までの贈与ルートが形成されたものと思われる。
(それはこれら贈与物が産地から線的にではなく面的に広がっていることで伺うことができる)
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<参考記事>
「縄文の文化圏:交換物の分布から「文化圏」が見えてくる」
ヒスイの広域に渡る存在は、交易か贈与か?
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの
【海洋民族としての縄文史観】
日本列島の国土の特徴は3700に及ぶ島の集合体であり、国土にくまなく配された川や湖である。
それによって水路や周辺の海域が交通や交易ルートになっていた。また、日本へ渡来した民はその多くが古代から海を渡って到着しており、必然的に航海技術に優れた民族の集合体となっていた。
この点は網野史観の主要点であるが、海洋民としての日本民族は移動する民であり、海岸線や川の流域に線上に集落を形成し、それらを繋ぐ海洋民がその後、江戸時代まで通商を押さえていく中心勢力になったと論説されている。
一方、贈与ルートは時に国内だけでなく、大陸とも繋がっており、日本海を介した広域海洋ネットワークが形成されていた。例えば、北九州と朝鮮半島の南岸、東岸は双方に結合釣針や石鋸を使い、曹畑土器を用い、特有の石器を使う魚労民の文化があったことが証明されている。
また中国東北部遼寧省の牛河梁遺跡から出土する環状列石、円筒状土器など遺物のすべてが三内丸山と同じという事象がある。これらの事例は贈与ネットワークが国内に留まらず、4000年以上前に日本列島と大陸との間に交流があった事を示している
ここでは日本には航海技術を持つ集団が古代から多く有り、彼らが古代市場の形成に大きく関与していたという部分を押さえておきたい。

<参考投稿>
縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた
後半に続きます・・・・。

投稿者 tano : 2010年02月10日 List  

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コメント

> 略奪闘争がはじまって以降、本源集団はことごとく解体されていき、同時に私権圧力はどんどんと高まっていきました。そのような状況の中、生涯身分固定という現実に何の可能性もない非支配層が、せめて頭の中だけでも充足したいと願い、観念宗教に収束していったことは必然であっただろうと思われます。
支配ー被支配という関係がいかに人間を厳しい状態に追い込むか、この宗教の登場過程に思いを馳せるとわかるように思います。夢とか希望という言葉が現代でも時々使われますが、人は可能性を求め、そこに収束する事で活力を維持します。
その可能性が完全に閉ざされたこの時代の人々の心の中は生きる活力を求めて何かにすがったのだと思います。
宗教とはその意味で役に立ったとだと思いますが、それには人々の可能性を奪った国家や支配者という存在によってもたらされた一種の必要悪だったのだと思います。
宗教って何?これを考える事は私権時代って何?を考える事と同義だと思っています。
2000年間に渡って人類史に定着し、プラス、マイナス含めて私権時代の中ではある意味、最大の貢献をしたのかもしれません。あるいは途中から支配者の道具になり、同じ方向に向かいだしたのも宗教です。なぜそうなったのか、それは宗教の誕生から必然構造だったのか?その辺りを解明し、解説いただけることを期待しています。

投稿者 脱宗教家@ : 2010年4月29日 12:50

脱宗教家@さん、貴重なコメントありがとうございます。
>宗教って何?これを考える事は私権時代って何?を考える事と同義だと思っています。
 まさにその通りだと思います。私権時代に入る前は、精霊信仰という自然に対する畏敬の念のみであり、それは、現実直視の思考であり、自我が介在する余地は微塵もありませんでした。
 しかし、私権時代に入り、満たされない私権欠乏を、宗教という本源風の観念で埋めていくことになります。その意味では、脱宗教家@さんがおっしゃるように、宗教は必要なものだったのかもしれません。しかし、その宗教によって、争いが絶えなかったのも事実です。
 その辺りの構造を解明できるように、これから追求していきたいと思っています。

投稿者 カッピカピ : 2010年5月4日 11:33

>満たされない私権欠乏を、宗教という本源風の観念で埋めていくことになります。
この部分は少し修正が必要に思いますが・・・。
宗教は私権欠乏を埋めたのではなく、私権社会によって集団がばらばらになった結果失われた共認欠乏を埋め合わせたのだと思います。だから本源風のものが必要になった。
そう考えると、宗教の必要性は私権社会によって作り出されたという事になります。私権社会以前であれば、共認は集団の中で育まれ、共認欠乏も私権欠乏も発生しませんから、宗教の基盤はありませんよね。

投稿者 脱宗教家@ : 2010年5月5日 14:41

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