| メイン |

2013年01月01日

◆新春企画「大化の改新」から、この国の“政治”の黎明を考える

resize.jpg
画像はこちらからお借りしました。
あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
さてみなさん、昨年はどんな年でしたか?
ロンドンオリンピック東京スカイツリーの開業など、華やかなニュースもあれば、いじめ問題領土問題等、社会的にも色々と考えさせられるニュースも有りました。
中でも記憶に新しいのは年末の衆議院選挙です。
前回選挙の大躍進とは正反対に、その後の迷走した政権運営に対する強い批判から惨敗した民主党。棚ぼた式で与党となったが、どこか新鮮さやインパクトに欠ける自民党。
そして「第三極」等と言われながら烏合離散を繰り返し、「極」と呼べるような明確な収束軸になり得なかった新興政党の数々・・・・
結果的に自民党が第一党となりましたが、これはあまりに拙い民主党の政権運営への批判票を吸収したに過ぎず、変化や改革を自民党に期待したわけではありません。
あるいは迷走した「変革」への反動から、旧来の手法でよいから「保守」「安定」を指向した結果に過ぎないとも考えられます。
このように、今ひとつ「中心軸」や「新鮮さ」が感じられない政権となりましたが、期待感や高揚感がない一方で、絶望や憤りを露骨に顕す事もなく、この状況を自然に受け容れている人も多いと思います。
これは欧米やアラブ圏等では考えられない、日本人独特の政治への意識かと思います。
そこで今回は、新しい年を迎えるにあたり、我が国の「政治のあり方」、すなわち統治権力に対する潜在意識と、それに応じた国政運営の手法はどのように成立したのか、みなさんと考えてみたいと思います。

 にほんブログ村 歴史ブログへ


そもそも我が国において、現在に繋がる「政治」の形が作られたのはいつからでしょうか。
何事もまずはその「起源を識る」という意味で、古代政界の一題エポックとなった「大化の改新」に注目したいと思います。
%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0.jpg
『多武峰縁起絵巻』より、暗殺される蘇我入鹿。
画像はこちらからお借りしました。

それまでの大和朝廷は、蘇我氏、物部氏等の土着の大豪族による連合政権であり、その影響力も畿内に限られていました。
しかしこの政変以降、大和朝廷は地方豪族の連合政権から全国支配を目指す天皇中心の中央集権へと変わり、中国を模した律令国家へと変わっていったと言われます。
しかしその実態は、中国の皇帝とは違った物だったようです。
以下、るいネットからの記事
平和日本の天皇に絶対君主はなじまず、大政官の中の政治機関としての位置づけより引用します。

◆中国皇帝を模倣できるか
元来、天皇という地位は、大化改新後、中国の中央集権国家を模倣する過程で、中国の皇帝に相当するものとして措定されたものである。中央集権国家を形成する場合、国家の枠組みとしての官僚制は、古くからの氏族制秩序をたくみに編成し直しながら構想されたと思われるが、国家意思の決定システムの頂点にあるべき王権のあり方をどう規定すべきかについては、現実の政治秩序の反映であると同時にすぐれた思想的な問題でもあるため、当時の支配層にとって困難な問題であったに違いない。しかし、意思決定のシステムが明確でなければ、国家そのものが機能しない。だから、どのように天皇という存在を規定するかは大きな問題であった。
 
中国の場合を考えてみるに、歴代王朝は、天命を受け、天子として天下万民を支配すると称しているが、もちろんタテマエで、実際には、どの王朝も前王朝を武力で倒した征服王朝であり、直属の軍事力と独自の財力を保持し、国家に対して支配者として君臨している。国家意思決定に際しても、皇帝は唯一絶対の専制君主であり、官僚制は、その皇帝の意思を執行するための機関である。それがタテマエというか大原則である。
 
これに対し、日本の場合は、まず征服王朝ではない。何世紀も前に大和盆地に成立した大王の権力が、諸豪族の折り合いの中で継承されてきたものである。一般に氏族の連合体と言われているように、合議を前提としていた。天皇は大王の延長上にあったから、その権力は明確なものではなかった。権力の基盤となるような独自の軍事力も財力も存在しなかった。そもそも、異民族の支配を知らない島国であったから、都に城壁もなければ、常備軍の必要性もなかったのである。 
だから、教科書を信用し、大化改新後の改革によって日本は中国的な中央集権国家になり、天皇も中国の皇帝のような専制君主になったなどと勘違いしてはいけない。もともと、中国のような唯一絶対の専制権力が成立する基盤がなかったのである。その点をはっきりさせておかないと、日本の歴史は理解出来ない。

以上、引用終わり
なるほど大化の改新は、決して天皇がリードした行政改革ではなく、中堅豪族である中臣(藤原)氏が大豪族の蘇我氏を討って政権を奪取したという、謂わば豪族間の権力争いに過ぎません。その大義名分として「天皇中心」を打ち立てますが、あくまで建前。
天皇や中臣氏にいきなり権力集中することは無かったし、そんな事は考えていなかったと思われます。
縄文・弥生時代を通して培われた「和をもって尊し」とする調和と合議の精神は当然受け継がれていたであろうし、露骨な権力集中はかえって批判や混乱を招く事を、諸豪族はよく心得ていたのでしょう。
では、建前は権力のトップである天皇のその実態は何だったのでしょうか。
以下、同じくるいネットからの記事
平和日本の天皇に絶対君主はなじまず、大政官の中の政治機関としての位置づけより引用します。

◆天皇の権力とは
日本の古代国家において、天皇はいかなる存在だったのか。また、国家の最高の意思決定はどのようになされたのか。
 それを考える際に手がかりとなるのが「太政」の語である。
(中略)
 
その太政官であるが、「太政」の語の本来の意味からも国政の最高機関であった。それが、大友皇子が長官とはいえ、天皇権力の外側に、諸豪族との合議の場として成立したのである。天智はこの年の十二月に亡くなるから、大友皇子に後事を託したとも考えられるが、その後も太政官が存続することを考えると、唯一絶対の専制君主である中国皇帝という存在に違和感を感じた日本の支配層が、あえて、天皇を国政の場から外したと考えられる。もちろん、国家の最高意思は、形式上は天皇の発する詔勅によるが、機構上、国政審議の場に天皇がいないという事実は重いと言わねばならない。
(中略)
では、天皇の安定した権威とは、どのようなものか。それを具体的に記し、模範的天皇像として、これから即位する皇太子にも、即位した天皇にも示しておきたい。それが、豊かな学識とすぐれた人格だったのである。そのために作られたのが(聖徳太子)像だったのである。さらに、『日本書紀』編纂時の女帝という現実を考慮して、当時の大王を推古という女帝にしたのであろう。ここに、女帝と皇太子という組み合わせが成立したのである。
 
以上、中国の皇帝と異なる日本の天皇について述べ、その天皇を利用する形で藤原不比等の権力が確立し、その不比等が、あり得るべき天皇像を『日本書紀』の中に示したのが(聖徳太子)である。

以上引用終わり。
興味深いのは「聖徳太子」の取り扱いです。
為政者にとっての“模範的君主像”としての聖徳太子というのはなかなか興味深い内容です!

%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90.jpg
聖徳太子像
画像はこちらからお借りしました。
たしかに聖徳太子は、十七条憲法、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣など、摂政としての華々しい政治成果とは別に、様々な伝説的(ていうかちょっとあり得ない)英雄譚がついて回ります。
10人の話を聞き分けた、とか、馬小屋で、かつ仏舎利(お釈迦様の骨)を握って生まれるといった、西方の聖者達を彷彿とさせる誕生秘話、さらには飛翔伝説や、阿弥陀如来に3回手紙を出したら返事が来た(つまり文通ですね)といった伝説まであります。
非実在説が語られるのもこうした超人的な逸話故ですが、その真偽は別として聖人君主としてかなり粉飾されている事は間違い有りません。
日本書紀は神話色の強い歴史書ですが、それでも1人の人間がここまでカリスマ的に表現されるのも不思議な話です。それもこの成立の流れを掴めば納得出来ます。
一方、君主に「絶対権力」ではなく「豊かな学識とすぐれた人格」をもとめる精神は、現代の私たちにもどこか理解できます。
おそらく、統治者に力による「支配」ではなく、経験・知識・人格でもって皆を導く共同体の「長(おさ)」としての能力を期待する精神が今なお息づいているのでしょう。
その意味で、自らの権力基盤確立のためとはいえ、不比等が措定した「天皇像」もまた日本人の精神風土に合致した物であったと言えます。

大化の改新も聖徳太子信仰も、たしかに権力闘争の一環であるかもしれません。
しかしそこには、いまよりも色濃く縄文体質と共同体基盤を残していた民族への「統治」と「統治者」のありかたの一端を見ることが出来ます。
歴史的に見ても、我が国に於いては特定の勢力が独裁色や強力なリーダーシップを発揮する事の方が希有な事例であったと言えます。
平清盛や後醍醐天皇、織田信長など、強力な権力集中を目指した為政者もいましたが、彼らは例外なくずっこけています。
60年代~80年代の自民党長期政権も、一党独裁等と言われてきましたが、その内実は保守系派閥の連立政権であり、2,3の例外を除いて党総裁に権力が極端に集中する事は有りませんでした。
もちろんそこに様々な問題があった事も事実ですが、改めて現代に目を向けてみると、その後の小泉政権による劇場型の政権運営や、民主党の実現不能な「変革」に踊らされてきた国民にとっては、
今はその反動としてそれ以前の合議と調整に重点を置いた政権手法への回帰が始まっているとも考えられます。

それは、今回の選挙が今までの「利権」や「要求」を争点とした選挙と全く趣を異にしていたことを示しています。
政権交代と震災、原発事故を受けて、人々の政治に対する意識も大きく変わりました。
もちろん今回の選挙においても、各政党はそれを意識し、「政権交代」「震災復興」「原発の是非」等を争点としてきましたが、実は人々の意識は更に深いところで動いていたと言えます。
すなわち、目先の利権や体制ではなく、これからの時代に適した政治の仕組みや、社会の仕組み、企業の仕組みは何なのか、への模索が既に始まっていると言えます。
今、古代の政治形態を振り返ると、そこには日本人独特の政治意識の源泉を見るように思います。
渡来人によりもたらされた大陸の制度は、我が国の精神風土に合うように変質し、現代にいたる『国家のかたち』が形成されて行きます。
縄文時代から受け継がれ、律令時代に確立した合議制や協調・調和を重視する政権運営の思想は今も日本人の精神に息づいているのではないでしょうか。
これは決して不思議な事ではありません
そもそも人類は、共認形成をその命綱として生き残り、進化してきました。
本源集団にあっては、見識豊かな「長老」を中心とした合議と調和に基づいた集団運営は当然であり、むしろこれこそが人類本来の姿と言えます。

明治期に欧米より持ち込まれた「資本主義」「民主主義」といった『国家のかたち』が今や機能不全に陥りつつあることを皆感じており、これは先進諸国共通の想いだと思います。
目先の制度や改革にはもはや突破口はなく、政治や国家のあり方そのものを問う時代にさしかかったと言えます。
その為にも、古代史にまで遡り、そこで形成され脈々と受け継がれてきた、縄文体質と共同体基盤に立脚した日本独特の『国家のかたち』の検証と追求を重ねることで、その本質を考える、今年はその最初の年になってゆくのではないかと思います。
以上、最後まで読んでくれて、有り難うございました!
本年も宜しくお願いします!!

投稿者 yama33 : 2013年01月01日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/01/1465.html/trackback

コメントしてください

*