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2011年04月16日

「南から見た縄文」4~沖縄は南九州から始まっている

南から見た縄文シリーズもいよいよ中盤にさしかかります。毎回力作が続き楽しみなシリーズになってきました。これまでは3回に渡り南の本場、スンダランドからポリネシアを見てきました。
プロローグ
太平洋に広がる大語族、オーストロネシア語族!!
オーストロネシア語族は、なぜ遠洋に拡がったのか?~
ポリネシア人が陥った罠、遠洋航海への可能性収束→父権化への道!
そして今回より、いよいよ日本にスポットを当ててみたいと思います。今回はその最初として海洋文化のメッカ、沖縄の歴史を見ていきます。
海に浮かぶ沖縄諸島は現在でこそ豊かな海洋文化の地です。
しかし、その歴史は豊かな海産物や亜熱帯の果実に恵まれた南方諸島のイメージとは大きく異なっていたようです。
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日本で最古の遺跡が確認されるのは沖縄である。
沖縄の歴史は32000年前の山下町洞窟や18000年前の湊川人の遺跡や人骨にあるように、日本でも最も古く人が居住していた跡が確認されています。湊川人の起源は諸説がありますが、現在では、その骨相の正確な復元からインドネシアのワジャク人ではないかという説が有力で、縄文人とは直接繋がっていないというのが通説です。おそらくは一時、沖縄と陸続きであった時代に大陸から渡って来た古代人達だと思われます。
1万年の空白期間
沖縄の歴史は湊川人以降は約1万年間に渡ってほとんど遺跡らしいものは発見されておらず、考古学的には空白の期間と言われています。温暖化による海水上昇によって平野部の居住跡が海底に沈んだ可能性も有りますが、この時代、沖縄は居住には相応しくないかなり厳しい食料環境になっていた可能性があります。それは湊川人の歯(極端に磨り減っている)や骨相(かなり小型)から生存限界に近い食糧事情であったことが伺えます。
島は大陸に比べて環境の変化を最初に受けやすく、また動物や植物資源の種類や量も比較すればはるかに乏しいという特徴があります。大陸と繋がる事のない諸島は時に火山噴火や台風、急激な寒冷化、温暖化などで居住域が失われ無人化するなどの事例は考古学的にもしばしば発生しており、沖縄もそのような島特有の自然外圧を受けてきたようです。
7000年前から始まる沖縄の歴史
再び沖縄に人が居住し始めたのは7000年前の事です。本土との間に位置する奄美でも同様で7000年前から土器が発見されています。この時代にあったのが、南九州の海底にあった鬼界カルデラの噴火です。
7300年前から始まる鬼界カルデラの噴火は最大の噴火を6300年前に起こした後は、九州から中国地方、四国までを無人にするほどの巨大な火山灰が500年間に渡って降り注ぎ、西日本での縄文文化はこの時期に一旦壊滅しています。
南九州の多くの縄文人は海を伝って東へ移動しますが、一部は海洋技術を駆使して南へ舟を漕ぎ出します。その一派が奄美へ、沖縄へと辿りついたのです。
鬼界カルデラの噴火は結果的には南九州での縄文文化を沖縄へ運んだ動因になります。一方で東へ向かった人々は関東地方や東海地方に南の海洋文化を伝播させ、さらに東北地方にまでその影響は広がっていきました。この巨大火山活動は縄文時代において大民族移動を誘導する大きな出来事であったと言えます。
南九州の歴史はどのように始まるか?
南九州は縄文早期に日本では最も早く定住跡が確認されています。9500年前の上野原遺跡はその一つで、50棟の竪穴式住居が集合しています。またその2500年前の12000年前には鹿児島の栫ノ原で世界最古の丸太舟を削りだす磨製石斧の確認がされており、高度な海洋文化を持った海の民が日本列島に定着している事を示しています。
この海洋的特長はその後、東南アジアでも確認され、スンダランドが沈み始めた1万3千年前にスンダランド海洋民(C1系統)の移民であると言われています。(C1系統は日本列島にしか居ない特殊な遺伝子で、C系統の種が日本に移動して環境適応し、独自に発生した新種である可能性があります。)
彼らは貝殻をモチーフにした貝文土器を擁し、その後鬼界カルデラの噴火まで約5000年間この地に定着します。5000年という期間は民族の混血が進むに十分な期間です。
その間、朝鮮半島から日本列島に流れ込んできた縄文人の主流である大陸系のD2系と混血が進んだと思われます。その混血の証として南九州でも栽培技術や土器技術が発展し、中でも沖縄で見られる爪型文土器は西北九州でも発見され、またその後移動した証拠として関東や東北まで縄文土器の中に転々と見ることができます。
この爪型文土器の流通から見て、この時代に南九州も海洋文化から大陸文化へと徐々に変化していったと考えられます。
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左:九州で発見された爪型紋土器 右:沖縄で発見されたもの
同様な手法で土器が作られています。上総博物館水野の縄文写真館よりお借りしました。
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クリックすると拡大します↑
沖縄が海洋文化に変化したのは後天的な歴史による
現在の沖縄人の民族研究からも沖縄の言語や形質、遺伝子は縄文人を濃厚に受け継いでいると言われています。
沖縄に縄文文化が根付いたと言われる所以は、この時代(縄文早期)を通じて海洋系C1と大陸系D2の混血が進んだ事を示しており、結果として火山噴火と共に大陸の文化D2系は、はるか沖縄まで移動することになります。しかし沖縄という海洋的環境の中でその後、台湾や中国からの影響を受け、再び海の文化である交易拠点という形で始まっていきます。
弥生時代から始まる貝の道は沖縄の海洋的特長を示していますが、しかし貝の道を開いたのは沖縄在住の民ではなく、呉越の滅亡と共に日本列島に流れてきた舟を操る海人達(安曇族)でした。彼ら(弥生の民)の影響もその後沖縄は受ける事になり、貿易立国琉球王国に繋がります。
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貝の道のルート
沖縄の歴史はさまざまな文化の塗り重ねである。
沖縄とは文字通り八方を海に囲まれた無防備な島です。このように外からの文化をいかようにも受け、それを昇華してまるで柳の枝のように揺らぎながらも、その本質は代わらず、しっかりと次代に繋いで行ったのです。それは琉球王国となってからも同様で、江戸時代に入り薩摩の支配下になりながらも、中国との貿易を独自に続けるという形でしっかりと自身の立地を築いていた事からも伺えます。
海洋人類学者である外間守善氏は沖縄の歴史を以下のように表現しています。
「近年になって旧石器時代はともかく、弥生文化の時代から歴史時代に入って後の、沖縄文化の中に占める大陸系文化と南方系文化の比重は、前者のそれがより密度の濃いものであることが、言語学を初め、考古学、歴史学、民俗学等々の立場からいくつとなく発言されるようになってきた。しかもそれは日本の九州を経由して入ってきた大陸系文化であり、それを主流として、その後の日本本土から入ってきたもの、直接中国から入ってきたもの、南方諸地域から入ってきたもの等々が、さまざまな重なりをみせる複合文化であると考えるのが妥当であろう。地理的に、歴史的にさまざまな文化の交錯する必然のある沖縄でその文化の特性をとりあげようとする時、「文化複合」という視点は重要である。」
縄文資質を最も色濃く受け継いだ沖縄は、上記のようにさまざまな文化的影響を受けながら今日に至っているのです。それはまるで日本の縮図のようでもあり、また全く本土とは別の日本の姿でもあるのです。

投稿者 tano : 2011年04月16日 List  

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コメント

日本古代史の中で 石渡信一郎&林順治氏の 『倭韓交差王朝説』は
きわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説 扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
『倭韓交差王朝説』とは
(1)崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
(2)5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は 崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
(3)昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
(4)応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
(5)継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
(6)欽明は応神の息子で 531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
(7)蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
(8)蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。 
(9)馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
(10)天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で 天武は古人大兄と同一人物。
以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、
内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、
石渡教授が論理的に証明された真実です。
ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。
そしてこの『倭韓交差王朝説』で 日本史の教科書は書きかえられるべきです。
私の子共もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください
どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??
ぜひ 新 騎馬民族説といわれる 石渡信一郎の倭韓交差王朝説について 論じてください

投稿者 むらかみからむ : 2011年9月19日 23:10

昔はトンデモ説であった江上説ですが、今や定説になろうしているのですね。
「天皇家の起源が大陸の騎馬民族にある」といのは、普通の日本人の感覚からしたら、受け入れがたい説だと思いますし、およそ発想もしない説であるように思えます。江上氏は、どのような過程でこの騎馬民族説に辿りついたのでしょうか。きになるところです。

投稿者 かっぴかぴ : 2011年9月24日 23:39

かっぴかぴさんへ
江上氏は、史観の着想を27歳の蒙古で得たと云っています。そのことに触れている部分を紹介します。
>その後何回か蒙古に行っている間に、おもしろいことに気がついたんです。日本は農耕文化、農村社会だというけれども、ほんとうにそうだろうかという疑問を持ったんです。(中略)
華北の農耕地帯、あるいは長城地帯の農耕地帯で漢人(漢民族)の農民がやっていることは、日本の農民のそれと非常にちがう。しかし、逆にまったく異なる遊牧生活をしているモンゴル人と日本人はいろいろな点でたいへん似ているということです。(中略)
モンゴル人の移動的住居の包(ゲル)ではないけれども、華北農民の煉瓦造り、あるいは泥造りの重苦しい家屋とはちがって、日本の家は板造りで、永久性に乏しい。モンゴル遊牧民のパオは野外に分散しているが、華北の村落は土壁や城壁に囲まれて遮蔽的なのに、日本の村落にはそれがない。中国人は旅人は泊めないが、モンゴル人は見ず知らずの者でも歓迎して泊める。わが国にもその傾向がある。などなど。
日本の支配者は元来、文化は大和朝廷にしても―のちには公家が出てくるけれども―、やはり武人なんですね。その伝統をひいてのちには将軍家が出てきて、封建制になる。世界で封建制のあるところは全部と言ってよいほど、戦士階級を持ったところですね。
そう見ていくと、これは日本人の中に、土着の農耕民層の上に別系統のグループが重なっているのではないかと考えたわけです。つまり、農民の文化は江南の水稲農耕の文化を持ってきた人たちがいた、これに対し、上の方の支配層は朝鮮を経由して入ってきた別の武士階級を中心とした民族がいたのではないか、と。<
江上氏の壮大な史観は、上記のような素朴な実感から出発していたのです。東京帝国大学の学生時代から、東方文化学院の研究員になった頃です。大学時代、他の学生とは違った視点からのアプローチに対して、指導教官からは、卒業に何年かかってもいいから続けなさい、と言われたようです。
やはり、当時としては斬新な着想だったのでしょう。その背後には、遊牧民やその周辺史実に対する粘り強い探求があったはずです。

投稿者 くまな : 2011年9月30日 18:17

たられば論を寄せ集めてるようにしか思えない
科学的な部分と推測をきちっと並べて考えていかないと
天皇家の125代との整合性も必要に思います
文化的に極一部が類似しているという事を取り上げてこねくり回しているような物で、推論が出来上がりそれが一般論となる恐ろしさを感じました
南京事件の捏造とかわらんだろうとか
穿った見方しか出来ないように思います
流れが飛ぶのではなく流れを追いかけたような論を希望します

投稿者   : 2011年9月30日 23:45

大和民族大移動その①***********
書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんがった泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとか泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟がありその架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していたとしたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針だ。
もちろん真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の起源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳の鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
③地名人名の起源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、飛んでも説を よくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
続きは その②を読んでください

投稿者 むらかみからむ : 2012年1月22日 22:59

大和民族大移動その②***********
書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は531年説で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツ は典型例でしょう
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族はうるわしの土地を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な日本列島こそ『うるわしの土地』だった。
新羅を置きざりで、自ら大和民族大移動して来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
酒好きじいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んじゃった。
ひいひいひいじいさんの妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石綿説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』が眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
その副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』

投稿者 むらかみからむ : 2012年1月22日 23:01

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