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2011年09月10日

著書分析より明らかにする日本支配の始まり5~山形明郷著『邪馬台国論争 終結宣言』から古代日本の支配層を探る~

 シリーズ「著書分析より明らかにする日本支配の始まり」の第5回目は、山形明郷著『邪馬台国論争 終結宣言』に焦点を当ててみたいと思います。
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 この本は、古代史学界において「北九州説」と「畿内説」で論争が続いていた邪馬台国論争に対して、新たに「朝鮮半島説」を打ち出し、この論争に終止符を打とうとしたものです。(詳しい内容については、以前、当ブログで紹介していますので、そちらを参照して下さい。)
◆邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-1 倭国は朝鮮半島にあった
◆邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-2 朝鮮半島説での行程問題
◆邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-3 卑弥呼は公孫氏の係累ではない
 今回は、「邪馬台国」の所在地に焦点を当てるのではなく、山形氏が読み解いた膨大な量の中国史書から、本シリーズのテーマである、”日本支配”につながると思われる部分に着目し、紹介していきたいと思います。
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① 倭・倭人・倭国とはそのまま「古代日本、古代日本人」を示すものではない
 これまでの著者分析シリーズでは、鳥越憲三郎氏の著作である『古代中国と倭族』『古代朝鮮と倭族』から、日本に渡来してきた倭族の足跡について分析を行なってきました。
 鳥越氏は、ある文化的特質を共有する民族を倭族と定義し、雲南から各河川を通じて、東アジア・東南アジアへ向けて広く移動分布していたと言っています。その『ある文化』とは、
【稲作(ジャポニカ米)文明で、住居は高床式、家には靴をぬいで上がる上足文化】
であり、そして、それら倭族の中で、日本列島にまで辿り着いたのが、日本における弥生人であると鳥越氏は言っています。
 これが事実であるとすれば、倭国すなわち倭人が建国した国は、長江上流域の四川・雲南・貴州の各州にかけて、いくつもあったことになります。その分布をイメージしたのが下の図です。
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注:画像はこちらの『日本人の起源』の“鳥越憲三郎の倭族仮説とはどういう説か”からお借りしました。
 このことから、倭・倭人・倭国はそのまま「古代日本、古代日本人」を指すのではなく、中国大陸や朝鮮半島、そして日本に広く分布していたと考えられます。
 山形氏は、倭国も邪馬台国も、中国遼寧省の南部に位置する遼東半島にあったと説いており、分布範囲についての認識は異なりますが、『倭国≠日本』という点では、鳥越氏と山形氏は同じ見解であると言えます。
② かつて日本を征服した民族はいなかった
 仮に、邪馬台国が日本になかったとすれば、弥生時代以降、日本に渡来してきた支配民族とは如何なるものだったのでしょうか。
 このことについて山形氏は、ある中国の史書から次の仮説を立てています。

●『続十八史略』より
嘗て十三世紀から十三世紀の七十九年にかけ、欧亜に跨る一大地を席巻し、東西史上類例を見ない大版図を有した蒙古帝国が、南宋の遺将たちと高麗一国を使嗾し、再度に亘って日本遠征を企てたが、其結果たるや周知の如く、実に散たるものに帰し、且つ、その遠征が彼の地の人心に如何なる影響を与えたかが、『続十八史略』に書かれており、海洋僻遠の地、日本遠征の容易ならざる事が窺える。

●『元史巻十四世祖紀』より
「帝以日本孤遠島夷、重困民力、罷征日本。」
(帝、日本は孤遠の島夷なるを以って、重く民力を苦しむ、日本を征するを罷む。)
 更に、同書の『巻二百八列傳第九十五』中にも
「二十三年、帝曰、日本未掌相侵」
(二十三年、帝のたまわく、日本は未だ嘗て相侵せざるなり。)
 大帝国を築きあげた元にしてこのような有様であることを考えると、まだ、航海技術や輸送手段が未熟だった古代において、波涛を越えた日本へ遠征し、西日本や北九州方面を経略し、自らの支配下に帰属させることが出来た民族などいただろうか。

 また、明の憲宋の成化七年=西暦1472年、李朝仕えた明人申叔舟が著した文献「海東諸国記」より、

「竊かに観るに、東海に国するもの一つに非ず。而も日本もっと久しく、且つ大なり。その地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接す。其勢い甚だ長し。其初め處々保聚し、各自国をなす。・・・(中略)・・・
猶、中国の封建の如し。かつて統属せず。習性強悍にし、剣槊に精し。」
 十五世紀も後半に入って「東海に国するもの一つに非ず」「かつて統属せず」は重要な箇所であろう。これは、日本はかつて、異国異民族の支配を受けた事が無かったということを示している。

と展開し、さらに同様の事は、マルコポーロの「見聞録」中にも記されている、と山形氏は述べています。それが次の文章です。

「ジパングは支那の東方千五百哩海中に在る一島国で、その地は広く、その民は皮膚が白く、文明の度が著しく進んでいる。その宗教は偶像崇拝で、嘗て外国に隷属した事が無い」

 つまり、山形氏の見解では、『かつて日本を征服し、支配した者はいなかった』ということになります。
③ 征服王朝ならずとも、部分的に日本を支配した異民族が存在していた
 しかしながら、征服王朝ならずとも、かつて日本が異民族の侵攻や蹂躪に悩まされ、国家滅亡の危機に見舞われた史実がなかったかというと、それはどうやらかなり古代に存在したと山形氏は述べています。場所は東北から関東で、後に蝦夷と呼ばれ脅威になった一帯で、山形氏はそれを中国の史書から整合させ、外来の韃靼人であるとしています。
 その民族とは、坂上田村麻呂の蝦夷征討として語られている「蝦夷」であり、その「蝦夷」とは従来語られている「アイヌ人」ではなく、中国の史書中に出てくる「韃靼」という種族であるという。そして、日本は、一世紀半の永きに渡って、この韃靼人による侵攻と蹂躪に悩まされ続けたと、山形氏は分析しています。
 この事実は邪馬台国が日本になかったという史実同様のインパクトを与え、蝦夷とは縄文人の末裔ではなく渡来の一派であった事が浮上してきます。  
 ちょっと長くなりますが、その部分の山形氏の原文を紹介しておきます。

>さて、それでは征服王朝ならぬまでも、嘗て我が国が異民族の侵略や蹂躙に悩まされ、国家存亡の危機に見舞われた史実が無かったかと云うと、それはどうやら存在した様である。それは刀夷の乱や元寇どころではなかった様である。
 刀夷や元寇の役は我が国のすう辺を掠め島民を殺戮拉致した程度で終止符が打たれたものであったが、この二つの外寇とは較べものにならない大規模な侵略事実が存在した。ただ、我が国の史書中ではその詳細を伝えておらず、又、史家達も軽視していると謂われる。
 では刀夷の乱や元寇に倍する外寇とは何であったか。旧来一般的に史家達はその事実を坂上田村麿の「蝦夷」の反乱鎮定であったとして片付けており、而してその「蝦夷」とは千年一日が如き蠢爾(しゅんじ)たる生活を送っていた「アイヌ人」であったと語っている様である。だが、事実は全く異なったようである。
 この「蝦夷」とは奈良朝以前の記載に現れてくる「えみし」ではなく奈良朝も末期頃に入って来ると同じ「蝦夷」の文字は当てているが、その種族の様相特徴は著しく変貌してきているという。第一アイヌに比べると極めて剽悍寧猛となっている事、第二が騎射騎戦の術に長けていた事、第三がウラルアルタイ系の文化的特性を持っていたこと等である。(中略)
 蝦夷とは一体どのような種族であったのだろうか?この疑問に答えてくれる文献は、先に引用した「ヒノギハン・ヤッパン」の一文である。
「一千年前なる桓武の御宇に当たって大韃靼(ダイダッタン)の無庭より、大軍を挙げて頻り基いとしける程に日本人も是を退治する事、はなはだ難なりけり。その故に彼等は常に挑戦して、しばしば敗軍してその勢いは大いに減衰せしか共、韃靼より日を追って新軍を送り備えて、勢いを助ける程に終に50年の久しきに堪えて、なおも日本の地に居て動かざりけり。然るに西紀799年国の守護神の威力冥助と、日本軍兵の鋭き多勢に力と一斉に起帳して終に彼らを抜き滅ぼしけり。如何となれば日本の史に記して曰く、「クヮンノン」とも言えり。(後略)」
 さて、我が国の史書の中で、坂将田村麿の蝦夷征伐と軽視した「蝦夷」とは、中国の史書中にもしばしば名を変じて現れる「韃靼」と称す種族であった事が判明してくるわけである。この韃靼という名称は極めて厄介な呼称であり、一民種単位の固有名詞とするには相応しくない様である。然し、大方の一般的見解に従うならば、大興安嶺山脈西側のフルンブルイ地方に居住せし蒙古人系の「タタール部」の漢訳であったと言う。しかし最広義の意で言えば、オスマントルコ人を除く、アルタイ系諸族をも一括して韃靼と呼称したようである。
 さて、鎖国論(日本誌)の記載するところにより、8世紀中葉から末年にいたる50年の間、このチュルク系蒙古人によって日本の在る地域は完全に占拠され、当時の大和朝廷の武力を以ってしては如何ともしがたい状況下に置かれてしまった事がわかる。この50年間で済んだのだろうか?日本史を遡ると田村麿の征伐から遡る事431年前、即ち仁徳天皇の即位50年頃(西暦361年)に将軍上毛野田道が蝦夷征伐に当たっているが、蝦夷の猛攻にあい田道は伊寺の水門(石巻)で戦死し、下って舒明天皇の西暦628年に同じく将軍上毛野形名が蝦夷征伐に当たったがこれも惨敗している。さらに下って斉明天皇の即位後(659年から661年)に渡って安部比羅夫の粛清征伐が行なわれその攻略の容易ならざりし事が伺える。この一連の時期の蝦夷とは田村麿が征伐した韃靼と同じ種族であった事は間違いない。とすれば、その支配は優に150年の長きに渡って日本はこれらの侵略と蹂躙に悩まされ続けてきた事になる。(中略)
 さて、このように自ずと異なったと思われる民種達に1世紀半もの長きに渡り日本の内陸部のある地域が占拠された事実が存在したわけである。然し、彼等が日本を征服し大和朝廷に取って代わり一つの王朝を樹立するには至らなかった事もこれまた認めざるを得ないのである。

 以上紹介してきましたが、上記をさらにまとめると・・・
 古墳時代中期に既に東北地方に韃靼の一派が一帯を占拠して国作りを始めており、大和朝廷の時代(西暦650年)にはすでに武力で大和朝廷同格の集団が関東以東に存在していた。彼等はモンゴル高原から東に居住したアルタイ系一派で、おそらくは扶余族が高句麗、新羅を建国した西暦300年~600年の期間に同格の種族が日本の東にその勢力を伸ばしたと思われます。
 大和の勢力とは全く異なる為、蝦夷(辺境の野蛮人)として史実から抹消されているが、山形氏の見解からすれば、東(関東)と西(関西)にこの時期日本を支配する拮抗した勢力が並存していた事になる。古代、大和朝廷に比する関東日本国の存在が在野の史家から時々、提起されるが、この韃靼の支配者とはまさに関東日本国の存在があったことを指しているのではないだろうか?
 縄文ブログではこれ以上の追求は今回、できていませんが、史実に隠れた日本の支配者を解明する一つの重要な切り口として山形氏の史観は押さえておく必要があるように思いました。
(カッピカピ)

投稿者 hi-ro : 2011年09月10日 List  

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コメント

『ヤマト』説、楽しみに読ませてもらっています。苗字がヤマトなんで、興味深いです!

投稿者 やまと めぐみ : 2012年5月27日 17:44

記事を書いたfirstoilです。
苗字がヤマトさんなのですね。すばらしいですね!
わたしの解釈がアップされたので読んでください。
もちろん、すべての人が納得する考えではないですが
このような意味を持つ言葉だとしたらスゴイと思いませんか。
ぼくは祖先に感謝したくなります。

投稿者 firstoil : 2012年6月1日 20:29

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