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2011年11月14日
縄文晩期はどのような時代か?【番外編】~縄文人と弥生人の関係は?~
8月~9月にかけて投稿してきた「縄文晩期とはどのような時代か?」シリーズ
~はじめに~
1.寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に
3.縄文晩期は祭祀に彩られた、祭祀に可能性を求めた苦悩の時代
4.弥生への転換は戦争をともなったのか?
~まとめ~
と6回に亘って、縄文晩期の日本の様子を調べてきました。
「縄文晩期はどのような時代か?」の答えは、~まとめ~で出ていますが、今回はその番外編として、調査しきれていなかった、渡来人の規模と集団形態について、「弥生人は大量渡来したのか?」そして、「弥生人と縄文人との混血の様子はどうだったのか?」の二つをテーマに見ていきます。
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◆縄文晩期、渡来人は果たして大量渡来だったのか?
従来弥生人の渡来の様子として通説となっていたのが、「大量渡来説」です。
しかし、弥生人が大量渡来したとすると、縄文人はすでに住んでいたのであり、弥生人が住む土地は限られていたはずです。
もし、彼らが縄文人を争いで(武力で以って)駆逐したのであれば、その形跡があるはずですが、その証拠は未だ発見されていません。
また、大量渡来ならば、我先にと良い土地を占有しようとするはずです。
そうであるなら、弥生人同士での争いも生ずるはずですが、こちらもまた、発見されていません(発見は弥生中期以降)<詳しくは、2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎に、4.弥生への転換は戦争をともなったのか?~を参照してください>。
つまりは、現在発見されている考古学資料を基に考察すると、大量渡来はなかったと見るべきです。
では、少数渡来であったなら、どんな渡来の状況だったのでしょうか?
おそらく、縄文人と渡来人との住み分けも、渡来人同士の住み分けも、平和裏に進んだものと思われます。
というのも、もともと狩猟に適する土地と稲作に適する土地には、多少の違いがあり、少数の移住であれば、縄文人(狩猟採取民)と弥生人(稲作農耕民)との衝突は生じません。
その上、少数渡来であれば、弥生人(渡来人)同士、土地もかぶらずに選ぶことができたはずです。
それに、弥生人(渡来人)の心情としても、命からがら戦争から逃れてきたのに、また新たな土地で争いなんてしたくないはずです。
そうであれば、争いには発展せず、考古学資料とも一致してきます。
事実、縄文晩期の福岡の早良平野を例にとると、穀物栽培を主とした縄文系遺跡が川の中・上流域にあり、その下流域に稲作に特化した弥生系の遺跡が出現します。
もともと大量渡来説は、弥生時代が約500年遡ると分かる前に、200年間に7.6万~59.5万(小山氏の推計)と人口が急増したことをもって、そこから埴原氏が、それまでの人口増加率から計算し、これだけの増加には100万人の渡来が必要であるとしたことに端を発しています。
しかし、その後中橋氏、飯塚氏による人口シュミレーションによって、農耕民である弥生人の人口増加率が、狩猟採取民である縄文人よりも高いことを仮定すれば、最初の渡来が少数でも、200年でも十分に在来集団を上回り、小山氏の推計に達することが分かりました。
尚且つ、弥生開始時期が500年遡ると、さらに低い増加率でも可能であることが示されています。
◆弥生人だけが増加したのか?縄文人も増加したのか?
中橋氏、飯塚氏の研究によると、弥生人だけで人口増加の説明は付きますが、果たして、弥生人だけが人口増加したのでしょうか?
このことを確かめてみるために、現在飛躍的に発展したDNA解析からその状況を類推してみようと思います。
(出典:「日本人になった祖先たち」篠田謙一)
まず、現在の日本人に占める男系だけに遺伝するY染色体の分布(上図)から、数値化してみると(全国で均すと)、大体以下のようになります。
C1:4.6%
C3:4.0%
D2:38.3%
N系:4.2%
O2b:30.7%
O3:16%
その他:2.2%
これを縄文系(C1、C3、D2)、弥生系(N、O2b、O3)で分類すると、
縄文系:46.9%、弥生系50.9%となり、縄文系と弥生系の比率はほぼ同じと見ることが出来ます。
このことから、おそらく、縄文晩期から弥生初期にかけての(小山説による)人口上昇は、弥生人によるものと思われますが、その後、(2.渡来民との融和的な共存がその後の舶来信仰、平和的外交の基礎にでも見てきたように)縄文人も稲作を取り入れ、中期以降に人口上昇したのではないでしょうか。
そうでなければ、弥生系の比率がもっと多くなっているはずです。
しかも、これほど多様なY染色体分布を示しているということは、皆殺しに至るような戦争及び一方的な混血が無かったことも表しています。
またそれに加えて、他部族に渡る(縄文・弥生間の)婚姻関係(混血)も少なかった、あるいは遅々として進まなかったと見るべきではないでしょうか?
その証拠に、弥生開始時期が500年、コメの流入がそれよりさらに500年遡ると、東北地方までの稲作の伝播の速さが従来考えられていたよりも、かなり遅くなります。
九州北部の縄文人が縄文後期にコメを知って、水田稲作をはじめるのに1500年、そこから西日本全体へ拡がるのにさらに500年かかることになります。
ようやく前10世紀後半に九州北部の福岡、早良平野下流域で始まった水田稲作は、九州南部、東部、西部瀬戸内では弥生前期中頃(前8~7世紀)に始まります。すなわち、300年近くかかって九州を出たことになります。それと同時に福岡、早良平野の中上流域でも水田稲作が始まります。
つまり、技術(文化)の取り入れも、混血も最低300年はかかったことを意味しており、どうやら縄文人が、すんなり受け入れたわけではなさそうです(逆に弥生人の方が警戒していたか・・・)。
中には積極的に交わろうとした人もいたと思いますが、そうでない人の方が多かったのではないでしょうか。
現に、後に「熊襲」「土蜘蛛」等と呼ばれる人たちは、山奥に住み、頑なに受け入れを拒否し、対立していました。彼らの末裔(もしかしたら元シャーマンの一族)こそが、縄文の習俗を今に伝えているのかもしれません(カタカムナ等)。
また、古来日本では、氏族(村)内での婚姻関係が主でした。
皇族や有力豪族になれば、政略的な他部族間の婚姻関係は生じますが、庶民はあくまでも村落共同体内での婚姻関係が主流だったのではないでしょうか。
そのため、上記のような、多様な分布となったと考えられます。
というのも、母系(女系のみ)遺伝のミトコンドリアDNAの分布(下図)も見てみると、現代人に多く見られるハプログループ(D,G)はその大部分が弥生人によってもたらされており、また、弥生人に特有のハプログループ(N9a,C,Z)は明らかに、弥生人によってもたらされています。
(出典:「日本人になった祖先たち」篠田謙一)
これは、弥生人が渡来するときに、男性のみではなく、女性も一緒にやってきたことを示しています。
男性のみであれば、弥生系のハプログループは見出せないはずです。
渡来時に女性も一緒であれば、わざわざ現地の女性を娶る必要はなく、自分たちで子孫を残し、村を形成することが可能です。
その中で婚姻関係がほぼ完結していたからこそ、現代日本人の中に弥生系のハプログループを持つ人が半数を占めているのではないでしょうか。
おそらく、各村で完結する婚姻関係は、大和朝廷成立まで続き、その後侵略等により急速に混血が進みますが(関東まで)、侵略がほぼ収束すると、また新たに各村で完結する婚姻関係が江戸時代まで続き、明治以後の都市への集中や戦争による疎開の影響等でまた急速に混血が進む、といった流れで現在のように全国でほぼ均一的な分布(下図)になったのではないでしょうか。
(出典:「日本人になった祖先たち」篠田謙一)
以上、縄文晩期における縄文人と弥生人との関係をみてきましたが、~まとめ~で縄文晩期は「渡来民と縄文人の融合が行なわれた時代である」とした通り、融合が行われた時代ではありますが、文化(農耕、青銅祭祀)の融合も人の融合(混血)も、実は遅々として進まなかった(住み分けていた時代の方が長かった)とみるべきかもしれません。
投稿者 jomon10 : 2011年11月14日 TweetList
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コメント
投稿者 日本を守るのに右も左もない : 2012年7月4日 16:07
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