著書分析より明らかにする日本支配の始まり~6.『騎馬民族征服王朝説』にみる天皇家の血筋と支配の手口~ |
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2011年09月19日
属国意識の源流を辿る5~倭の五王が属国の原型
親魏倭王印の金印の眠る島 想像図 |
『古代史の謎を解く旅 Ⅱ』より |
『属国意識の源流を辿る4』では『漢委奴國王印』や『親魏倭王』を授与は中国側のパフォーマンスであり、海を隔てた日本(地方部族)には大陸の外圧(侵略圧力)などはなく、属国意識なども存在していなかったことを述べました。
では、現在の属国意識はいつ頃形成されたのでしょうか?
属国意識の形成には、日本の外圧状況や渡来人の意識状況・内政状況などが大きく作用していると考えられます。
前回同様に、第2波以降の動向から探って見たいと思います。
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【渡来第三波と大和政権】
次の段階で、中国や大陸との外交上の関係が明確に登場するのは、4世紀前半から5世紀にかけての時代、つまり大和王権の勃興期からいわゆる「倭の五王」にかけての時代です。
『属国意識の源流を辿る4』で述べられているように、3世紀頃から朝鮮半島に戦乱圧力が発生し、朝鮮南部より難民が日本に流れつき始めます(渡来民第2波)。さらには4世紀初頭華北地方に匈奴が進入し晋は江南に移動、華北では五胡十六国の時代に突入します。この中国の支配力の弱体化を受けて、4世紀前半には高句麗が楽浪郡・帯方郡を奪いとり、南朝鮮では小国家群の分立状態から、馬韓小国家群より百済が、辰韓小国家群より新羅がそれぞれ統一を達成します。
その統一の過程で南朝鮮の権力闘争の敗族(元国家連合における上位階級)が日本に亡命を果たしたのではないかと考えられます(渡来民第3波)。
他方大和王権の登場は3世紀末頃といわれています。おそらく大和朝廷は第2波後半、日本(おそらく九州)に渡来(亡命)した南朝鮮の部族たちがいわゆる「東征(大和進出)」を行い、大和に拠点を得、その過程で勢力を蓄えていったと考えられます。
そして4世紀前半、第3波の南朝鮮における権力闘争の敗族の合流を通じて支配基盤を確立していったのでしょう。
『古代国家の形成』より |
この日本における大和政権の登場には特徴的なことがあります。大和政権勃興期の4世紀後半からすでに半島情勢に介入し、伽耶(任那・鉄輸入ルートの拠点でもある)に拠点を得、新羅や百済あるいは高句麗と度々戦争を行っていることです。このことは彼らの出身が朝鮮の元王族であり、故郷の地奪還のために積極的な外交及び戦争を繰り返していたことを示しています。
とりわけ百済とは4世紀末から5世紀はじめにかけて交戦し、王子を大和王権に預かり、その後百済国王に即位させているなど、百済に大いなる影響をもたらし、ほぼ大和王権と一体化した行動をとっているところから見て、大和王権諸豪族の主流は百済(ないし伽耶)出身ではないかと推測されます。
しかし朝鮮半島における覇権闘争の戦局は、大和王権にとって不利に働く、4世紀末から5世紀にかけて高句麗軍に敗北。5世紀には新羅が高句麗との連合を強めたため大和王権は後退を強いられることになります。
【朝鮮半島での覇権闘争と倭の五王による朝貢=中国への属国戦略の始まり】
かかる中でとられた外交政策が、中国に対する朝貢です。大和王権は当時の南朝の晋や宋に13度にわたって使者を送っています(つまり、中国の冊封体制に入る=属国となったのです)。この朝貢が当時の半島情勢における不利を中国の権威によって政治的立場を保障してもらおうとしたことは明らかです。中国は大和政権の申し出に対して、『六国諸軍事安東大将軍倭王』たる称号を授けたとされるが(倭・任那・伽耶・新羅・秦韓・慕韓)、秦韓、慕韓は架空の存在で、かつ新羅には支配は殆ど及んでいないことから、この称号も実質は単なる見せ掛け以上の何者でもありませんでした。
この朝貢は502年まで続くが結局は戦局は好転することなく、伽耶の統制力は後退し、百済も衰亡を重ね562年には伽耶は新羅に制圧されます。
以上が倭の五王による朝貢です。
この五王の時代の外交政策と、それまでの日本の歴史における相違点は以下のようになります。
まず特徴の第1点目は、日本が歴史上初めて大陸の直接圧力に接したという点。
それまでは大陸や朝鮮半島からの移民はいたがそれはポートピープルによる五月雨的なものであり。移民によって部族間の圧力は働いたにしてもそれは各地域単位の話であって、せいぜい日本列島内の話です。
第2点目はこの外交政策を採った中心勢力が南朝鮮(おそらく百済ないし伽耶)の王族出身者であった点。
彼らは長きに渡り、大国中国の圧力を感じ続けていた人々です。だからこそ他の朝鮮半島の支配部族たち(百済や新羅や高句麗)と同様中国の支配力が強大なときは中国の力と権威を利用しようとし、中国国内が戦乱などで支配力が弱体化しているときは中国と距離をとろうとします。実際、大和政権も南朝が弱体化し始めた6世紀にはいってからは朝貢を送っていません(あるいは送れるような足並みの統一が支配階級内部ですでに取れなくなっています)。
【大国の権威を借りることは重要な内政戦略でもあった】
では他方、半島における覇権闘争に血道をあげていた当時の列島における大和朝廷の力はいかなるものであったのでしょうか?
畿内で政権を構成し、臣・連として登場する氏は、渡来の早い遅いはあるものの、ほとんどが加羅人(あるいは百済人)であったと思われます。王を中心にした畿内豪族の連合がヤマト政権です。これに対し、出雲・北陸、東海・関東地方、それに北九州の一部には高句麗または新羅の地を出自とする諸部族が数多く存在したと思われます(九州が当時の中心であったとする九州王朝説さえ存在します)。彼らは、朝鮮半島の情勢を見守りながら、出身同族国家と連動しての自立や政権奪取の機をうかがっていたと思われます。さらには純倭人系と思われる隼人族(熊襲)も存在します。
加えて渡来人それ自体が支配的な立場にあるとはいえ、日本の中では少数派です。
つまり政権基盤は非常に弱く、圧倒的な力を基盤にした力の原理(序列支配)が貫徹できなかったと考えられます。
そういった力の基盤の弱体さが大国の権威をよく言えば利用する、(悪く言えば大国の権威によりすがる)という政策を採らせしめたのではないのでしょうか。
つまりこの属国という外交戦略は、中国の力を背景に政権を維持するという、優れて列島内の内政戦略でもあった可能性が高いと思われます。
事実、475年、高句麗が百済を攻め、蓋鹵(がいろ)王を捕斬します。王を失った百済は都を南の熊津に遷都しました。当時、高句麗の影響下にあった新羅も、百済と加羅を攻めました。
この外交の情勢変化=失敗を受け、列島内の豪族も動きを始めます。吉備、播磨、伊勢で反逆が起き、関東では上毛野(群馬)などがそれに加わります。おそらく大和畿内連合内でも深刻な事態となっていたと推測されます。武王(倭の五王の一人、雄略天皇と言われている)以降、600年の遣隋使まで「消息不明」(いわゆる「暗黒時代」)状態となるのもこうした内部情勢が生み出したものだったのでしょう。
投稿者 yoriya : 2011年09月19日 TweetList
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コメント
投稿者 匿名 : 2012年6月3日 00:34
どうも。倭国王家=ヤマト王家の根拠って、イマイチ信用出来ないんですよね。正直なところ、疑問点がいっぱいあるんです。近畿にある大型古墳に見劣りしない墓は他地域にもあります。また、中国南朝を大義名分上、君主と仰ぐ倭国王家が大型古墳を築いていたというのは不自然なんです。さらに、近畿には都督府や太宰府の地名・伝承・痕跡の類は皆無なんです。神護石山城群もしかりで、度重なる戦をする勢力が城を建造してないなんて有り得ないです。また、兵農一致の時代に、遠征と公共事業を大量にやったら、隋の煬帝と同じ失敗をしたことになります。ブログの当事者様は、この問題をどう思われます?
投稿者 匿名 : 2014年12月1日 19:16
研究価値がない、オウムと何が違いますか?
イスラム教はどこにきたらどこが砂漠に変貌する。