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2021年05月27日

江戸時代のエリートを育成した藩の教育システム「郷中」「什」「藩校」

江戸時代に日本を訪れた西洋人が異口同音に語っているのが、日本人の教育水準の高さだった。当時、世界的に見ても、一般庶民までが文字を読み書きできる民族は日本くらいしかしかなかったという庶民がそうなのだから、当時の知識エリートである武士にいたってはなおさらだ。

黒船艦隊を率いて浦賀に来航したペリー提督は、幕府に強く開国を求め、ついに翌嘉永七年(1854)に日米和親条約を締結して日本を強引に開国させた。このときペリーは幕府に、電信機や武器、そして蒸気機関車の模型などを贈っている。 模型といっても、今知られている鉄道模型とはかなり違う。時速30キロ以上のスピードで走る精巧なものであり、実際にレールを敷いて実演させている。ペリーの目的は、こうしたデモンストレーションを通じて日本人に文明の利器を見せつけて、日本が国際社会から取り残されている現実を思い知らせようとしたのだ

たしかにペリーの思惑はあたり、当時の武士たちは西洋文化に驚いたが、決してそれによって意気消沈したわけではない。なんと、幕府がペリーの蒸気機関車をプレゼントされてからたった一年後、佐賀藩が独力で蒸気機関車の模型を完成させてしまっているのである。 それだけではない。実用に足る蒸気船までつくってしまったのだ。しかも、これは、佐賀藩だけではなく、いくつもの藩で、蒸気船が作製されている。 つまり、短期間でたちまち西洋の技術を模倣できるだけの技術力を、当時の武士たちは持っていたのである。

こうした知的水準の高さについては、ペリーたちも認識したようで、「もし日本が開国して国際社会に参加したら、アメリカの強力な競争者になるだろう」と述べている。 いずれにせよ、簡単に西洋技術を模倣できたのは、日本人、とくに支配者たる武士たちの教育程度が極めて高かったからだといえる

そこで今回は、江戸時代の武士の教育について語っていこうと思う。

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不思議なことに徳川家による中央集権が基本の江戸幕府だが、こと各藩の教育には口を挟まなかった。だから藩によって教育の方針や内容は大きく異なり、その状態が250年以上も続いたことによって、藩独自の士風というものが確立されていった。そしてそれは、近代になってからも県民性として反映されていることが少なくない。

また、武士の教育というと、藩校が担ったと思われがちだが、それは正しくない。江戸中期まで、ほとんど藩校は設置されていない。 寛政年間(18世紀末)にようやく数を増やし、一般的になるのは天保年間(19世紀前半)になってからのことだ。それまでの武士の子弟教育は、家庭では親族がにない、外では近隣の子たちで共同体をつくって先輩に指導を仰ぐかたちがとられていた。

江戸時代、武士の鑑のように、その士風を讃えられた藩に、薩摩藩と会津藩がある。

【薩摩武士はこう育てる】

薩摩武士の勇猛さは、「郷中」によって練り上げられたといわれる。近隣の少年たちが郷中と称する集団をつくって、研鑽し合うのである

薩摩では6~10歳頃までを小稚児、11歳~15歳頃までを長稚児、15歳~25歳頃(妻帯前)までを二才と呼び、それぞれが同年齢集団をつくり、小稚児集団は長稚児に、長稚児集団は二才に指導を仰いだ

稚児の一般的な一日を追ってみよう。朝6時ごろ、二才の屋敷へ出向いて四書五経(中国の古典)などを学び、午前8時ごろから路上や広場で相撲や戦ごっこなどで体をきたえ、午前10時ごろに小稚児は長稚児から今朝学んだことを反復させられる。 できないと叱責されたり折檻をうけた。昼から午後4時ごろまでは遊戯の時間、ただし、個人行動は許されない。その後は二才から2時間ほどみっちり武術を教わり、修練を終えると、小稚児は一切の外出を禁じられた。 いっぽう長稚児は、二才から夜話というかたちで武士の在り方を教わり、午後8時ごろにようやく一日の日課を終えた。現在の受験勉強と比べてもかなりのハードスケジュールだ。

郷中で重視されたのは、知識の修得ではない。仲間の団結、長幼順の遵守、武芸の上達、命を捨てる覚悟、そして人間としての潔さであった。こうした毎日をおくることで、主君の命に絶対的に服従する剽悍な薩摩隼人が完成したのである。

【会津藩士は「武士中の武士」】

「一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。三、虚言を言うことはなりませぬ。四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。五、弱い者をいじめてはなりませぬ。六、戸外で物を食べてはなりませぬ。七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。ならぬことは、ならぬものです」

これを会津藩では「什の掟」と呼ぶ。

会津藩士の子は6、7歳になると、城下の寺子屋や私塾に入って論語の素読や書道を学んだが、同時に「什」と称する10名前後の小グループに属し、毎日集まって遊んだ。 什長には9歳の者が就いた。什長は遊びの前に「什の掟」を読み上げる。子供たちは一条終わるごとに返事をし、お辞儀をしなくてはならなかった。 掟を読み終えた什長は「昨日より今日まで掟に背いた者はあるか」と問う。

もし違反を告白した者がいた場合、皆の制裁を受けることになる。 仲間に謝罪する「無念」、手の甲を思い切りたたく「しっぺい」、手を火鉢にかざす「手あぶり」、上から雪をかぶせる「雪埋め」などがあったが、最も重いのは「派切り」だった。什から追放されてしまうのだ。そうなった場合、子供の親が什の子供たちに謝罪して許して乞うこともあったという。

こうした厳しい規範があったため、会津藩士は幼いときから掟を破らぬよう、武士らしく行動する習慣が染みついた。驚くことに、外から戻った子供たちは、すぐに仏間へ入って切腹の作法を練習したという。「いつ藩から切腹を申しつかっても、見事に果たせるように」との考えからである。

なお、薩摩藩の藩校・造士館が設置されたのは安永二年(1773)、会津藩の日新館は享和三年(1803)になってからだった。それまでは郷中と什が、主たる教育機関だったわけだ。多くの藩では、こうした同年齢集団による自己教育制度があったが、とくに薩摩藩と会津藩ではその厳しさが際立っていた。

【それ以外の藩校の教育】

ではそれ以外の多くの藩ではどのような教育システムがとられていたのか。初期の藩校の多くは、異なる年齢の子たちが一緒に教育を受ける形態をとり、その学力も均質ではなかった。 それが寛政~文政年間(1789~1828)になると、14、5歳を分岐点にして素読(初等科)と講義(高等科)に分かれ、その後は初等・中等・高等の三等級にするところが増えた。

また多くの藩校が進級試験を課すようになり、合格しなくては上級へ進めないシステムとなり、藩校での成績が出世にも影響を与えるようになった。だから子供たちは必然的に競い合うようになる

藩校教育の基本は、武士の教養である漢学(中国の古典的学問)の習得にあった。とくに幕府が奨励した朱子学を根幹とする学校が多かった。 10歳程度(後に低年齢化していく)で藩校に入学し、14、5歳までは四書・五経を中心とした古典の音読(素読)を中心に、武士の礼儀作法や習字などを学んだ。

ただし、この課程を終えると、教育方法はがらりと変わる。 古典の意味について藩校の教授から詳しい講義を受け、あるいは輪番で書評や意見表明をおこなうなど、少人数によるゼミナール形式の学習形態をとるようになるのだ。 午後には、武術の稽古を導入するところも少なくなかったが、学年が上にいけばいくほど、自学自習の時間が増していった。江戸時代の藩校においても、現在と同様、後期教育では自己教育力を重視したのだ。

カリキュラム編成についても、等級制同様、時代がくだると次第に複雑になっていった。漢学だけでなく、国学(日本の古典を学び、日本古来の精神を明らかにする学問)、蘭学(オランダなど西洋の学問)、医学、算術、天文学、兵学、音楽を導入する学校が急増。 これは、武士としての倫理確立や人格陶冶を目的としていた藩校に、知識や技術の授与といった目標が加わったことを示している

さらに幕末になると、領民に入学を許可する藩校が増加する。これは、庶民を藩の農兵などに育成していくために、基礎的な学問を身につけさせる必要が生じたからだといわれる。 多くの藩校は、明治維新後も小学校や中学校に転用され、近代教育が浸透する明治初期まで旧藩領内の教化に大きな力をおよぼしていたのである。

わずかな期間に西欧の近代教育が全国に広がっていったのは、江戸時代に藩校というものがきちんと確立していたということも非常に大きいだろう。 代表的な藩校としては、時習館(熊本藩)、造士館(薩摩藩)、明倫館(長州藩)、明倫堂(尾張藩)、弘道館(水戸藩)、致道館(庄内藩)、明徳館(秋田藩)、興譲館(米沢藩)、日新館(会津藩)などがある。

最後に、藩校が急増した寛政期と天保期は幕政改革がおこなわれたことでも有名だが、じつはこの時期、各藩でも藩政改革が盛んに実施された。 つまり、改革を推進できる逸材を育てるために、藩校が創設されたという一面があるのだ。どれだけ有能な人材を育成できるかに藩の将来がかかっていることを、武士たちも明確に認識していたのである。

投稿者 tanog : 2021年05月27日 List  

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