縄文の新しい認識(3)葬儀とは再生の儀式・土葬は母胎子宮への回帰。 |
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2021年07月01日
精霊信仰の回路とは一体化回路/一体充足を得て生きるエネルギーを産み出す回路である。
先週の劇場会議で右脳と左脳を扱った。
人類の人類たる所以は言葉を持ったことである。言葉の原初には観念機能があり人類はその機能を作り出すと同時に左脳を観念機能の為に開けて、人類以前の機能を全て右脳に集めた。なので、赤ん坊は生まれた最初は左脳は文字通り真っ白である。母親とのスキンシップ、回りの人への一体化、同化を通じて誰も教えてないのに自ら言葉を一つずつ発し、左脳に格納されていく。3年もすればその観念機能たる追求機能が開花して何を見てもなんで?どうして?どうなっている?を発していく。
会議で追求ポイントになったのが、人類の観念機能ってどうやって作られたのか?という事だった。それを掴むには人類の最初、足の指で木が掴めなくなって楽園である樹上を離れ危険な地上での生存を余儀なくされたカタワのサルである人類の誕生をイメージしなければならない。樹上を失ったカタワのサルは肉食動物が溢れる地上で戦う機能も逃げる機能も持ち合わせておらず、肉体が大きくも小さくもなく牙も爪もない地上では最も弱い存在と成っていた。ひたすら洞窟や動物が来れない海辺や川辺に隠れるしか無く、その殆どは死滅した。それでも辛うじて生きながらえた人類の祖先は常に危機と恐怖に怯え、生命を繋いでいた。周囲には何人かの仲間もいただろうが、サル時代に獲得した共認機能で最初は励まし合い、互いに助け合うも、限界があった。ひたすらどうするを何万年も何十万年も追求し続けた人類。その過程こそが観念機能を生み出した背景であった。
「どうする?」といえば「方法を考える」と現代人である我々は考えがちだが、いくら方法を考えても八方塞がりの状態で唯一可能性があったのが対象への一体化だった。極限時代の人類に最も必要なものは食べ物ではなかった。当然食べなければ行きてはいけないが、それ以上に切実に求めていたもの、、、それは何か?
力であり、エネルギーである。
縄文時代に蛇を最高神として同化しようとした縄文人、またアイヌは神の生まれ変わりとして熊を祭り上げた。これらと同じ、あるいはもっと切実で直接的に対象化したのが古代人類の自然への対し方だった。自然そのものにひたすら同化し一体化し、求めたのは自然が持つ絶対的な力であり、その力から生みだされるエネルギーであり波動である。現代人では信じられないほどの同化能力を持っていた古代人類はその波動に同化し自然に一体化、やがて自然の背後に精霊を見た。
精霊は後の人類の言葉を含めた観念機能=追求原回路に繋がっていくが、精霊信仰の回路とは一体化回路であり、そこに徹底的に一体化することで一体充足を得て生きるエネルギーを産み出す回路である。そう考えると言語とは対象を表現するため、や何かを伝える為、というのは二義的で、一体化すること、対象を掴むことに言葉の本質がある。
言霊や言葉の力というのは最近でも時々使うが、言葉に神が宿り、言葉が私達を活かし生かしている。そう考えると言葉を生み出したり発したりする前に右脳を全開にして言葉以前の世界を豊富に以ていることが重要になる。
赤ん坊はまばたき一つせずひたすら対象を見つめるが、その力が観念以前の世界として我々の脳には誰しもかつて深く刻印されている。大人になった今、同じような時がある。何かを考え追求して言葉にならない状態。それは決して無駄ではなく言葉にならないことの中にこそ追求の世界が広がっている。どれだけその状態で脳を働かせ続けられるか?だと思う。
投稿者 tanog : 2021年07月01日 TweetList
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