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2021年11月10日

【縄文2021】~縄文に立つ東京。東京の島嶼部で見つかる縄文の痕跡

みなさん、こんにちは。

前回より始まりました、「東京に生きた縄文人(2021/10/9~12/5 @江戸東京博物館)」視察レポートの第二弾!

今回は、東京都の島嶼部である伊豆諸島で多く見つかっている縄文遺跡の紹介をします。本州から離れた島嶼部でなぜ縄文遺跡が数多く発見されているのか?当時の状況や航海術も気になりますね。特別展で紹介されている内容と、展示を見て考察した内容をお届けします。

 

※写真は、特別展で撮影許可されたものを掲載

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太平洋に点在する東京の島々にも、縄文時代の遺跡が発見されています(特別展では、これまでの調査発掘記録が詳細に展示されていました)。しかも、島嶼部を産地とする貝や黒曜石が、本州の縄文遺跡からも数多く発見されており、本州の土器などが島嶼部の縄文遺跡から発見されています。黒潮を介して、縄文時代に本州と島嶼部で交流が行われていたことは明らかです。東京都の島嶼部である伊豆諸島は、以下の9島から成ります。

 

・大島(おおしま)

・利島(としま)

・新島(にいじま)

・式根島(しきねじま)

・神津島(こうづしま)

・三宅島(みやけじま)

・御蔵島(みくらじま)

・八丈島(はちじょうじま)

・青ヶ島(あおがしま)

 

現在こそ船や飛行機で比較的簡単に行けますが、本州から遠い位置の離島という事実は変わりません。美しい海に囲まれた常春の島・八丈島もかつては流刑地で、「鳥も通わぬ」と言われるほどだったとか。そんな伊豆諸島ですが、有史以前から多くの人の営みが確認されています。

 

■大島の遺跡

大島の遺跡MAP

伊豆諸島最大で、本州に最も近い島。島全体が溶岩に覆われ、三原山は噴火を繰り返しています。

・1901、1902年に東京大学の坪井正五郎・鳥居龍蔵らが、龍ノ口で溶岩流の下に遺跡を発見

・遺跡=52か所(海岸線沿い)

・縄文時代の遺跡=8か所(下高洞で住居跡)

 

■利島の遺跡

利島の遺跡MAP

宮塚山を頂点とした円錐形の島。海岸線は崖が切り立ち、砂浜の形成はありません。

・遺跡=13か所(大半が遺物の散布地)

・縄文時代の遺跡=6か所(大石山遺跡で集落跡、それ以外は中期~後期の少量の遺物)

 

■新島・式根島の遺跡

新島・式根島の遺跡MAP

この2島は、約2kmの距離で隣接しており、新島は南北に長い短冊状の形状をしています。

・新島の遺跡=6か所(縄文遺跡=5か所)

・式根島の遺跡=13か所(縄文遺跡=7か所)

 

■神津島の遺跡

神津島の遺跡MAP

島中央部の天上山を中心に円丘・支丘が分布する複雑な地形。酸性の流紋岩で形成され、島内各所に黒曜石の露頭がみられます。縄文時代には、黒曜石を石器の原材料として重用し、原石は本州の伊豆半島、東海・関東地方の各所に運ばれた形跡があります。

・遺跡=11か所

・縄文時代の遺跡=9か所

 

■三宅島の遺跡

三宅島の遺跡MAP

島中央部の雄山は、昔から噴火を繰り返す火山。大島、八丈島に次ぐ大きさです。

・遺跡=51か所(縄文、弥生、中世など各時代の遺跡が分布)

・縄文時代の遺跡=7か所

 

■御蔵島の遺跡

御蔵島の遺跡MAP

島中央部から裾野にかけて急傾斜の地形が続く島。三宅島と八丈島の中間に位置します。

・遺跡=4箇所

・縄文時代の遺跡=1か所

 

■八丈島の遺跡

八丈島の遺跡MAP

八丈富士と三原山、中間の低地からなる南伊豆諸島の島。西側4kmの位置に八丈小島があります。

・遺跡=10か所(小笠原諸島など南方文化の影響を受けた磨製石斧、石鏃(やじり)などが出土)

・縄文時代の遺跡=2箇所(倉輪遺跡では本州から持ち込まれた縄文時代前期末~中期初頭の土器、装飾品などが多く出土)

 

■考察:本州と伊豆諸島を航海した縄文人

これまでの研究で、旧石器時代から人類が伊豆諸島から本州に到達していたことが明らかになっています。その証拠として、神津島産の旧石器が本州各地で発見されており、最古のものは、静岡県沼津市の井出丸山遺跡から約3万7000年前の黒曜石が発掘され、分析の結果、神津島産であると判明しています。黒曜石はそのほかにも、関東地方を中心に広い地域で発見されています。同じく静岡県の河津町にある見高段間(みたかだんま)遺跡は縄文時代中期の遺跡で、約19kgの黒曜石が発見されています。これは、神津島から巨大な原石を切り出し、運びやすい大きさに加工してから流通していったことを示しています。

 

また、伊豆大島の下高洞(しもたかぼら)遺跡や神奈川県三浦半島の海蝕洞穴(かいしょくどうけつ)遺跡からは、オオツタノハという巻き貝の一種を使った貝輪や漁労具などが出土しています。オオツタノハの生息地は国内でも限られていて、伊豆諸島南部(三宅島、御蔵島、八丈島)や大隅諸島にしかみられません。縄文人は動物の骨や貝などを使って髪飾りや耳飾りなどの装身具をつくっており、その中にオオツタノハを使ったものがありました。出土例は北海道から愛知県まで広く分布。ひとつの遺跡から1、2個出土するかどうかで、希少価値のあるものだったと考えられます。

小田静夫(1992):黒潮圏の先史文化より

これらのことから、旧石器時代・縄文時代には石器の良質な材料を求めて本土と伊豆諸島を行き来した人がいたと考えられています。しかし、小舟を使って本州と伊豆諸島を航海するのはとても困難です。そのような点から、黒潮の流れに乗って南方から移住してきた人たちによって伝承された航海術を縄文人が活用したという仮説が考えられます。

黒潮の流れ(伊豆諸島を通る)

この仮説を裏付けるものとして、八丈島の湯浜遺跡があります。

 

湯浜遺跡では多くの石器が発見されているのですが、神津島産の黒曜石がある一方、石器の加工方法などには南方文化が残っています。説としては、小笠原諸島に漂着した南方系の旧石器人から伝わったのではないか?というものもあります。伊豆諸島では縄文時代の早い時期から、本州の縄文人が南下し、黒潮の流れに乗った新たな南方系の旧石器人も加わり、新たな社会を形成したのではないでしょうか。

 

縄文時代、日本列島にはいくつもの交易ルートが存在していました。伊豆諸島はその中でも重要な産地だったのです。どのように航海術が伝播したのかは明らかにはなっていませんが、おそらくは南方系もしくは中国大陸からの伝播であろうと考えられます。もしかしたら、旧石器時代に南方からの移民が黒潮にのって直接伊豆諸島や小笠原諸島に辿り着いた可能性も否定できません。縄文人の航海交易については、今後深掘りしたいテーマの一つです(今後追求していきます)。

投稿者 asahi : 2021年11月10日 List  

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