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2011年10月18日

「日本人の起源」を識る~2.前縄文時代の解明(狩猟・移動の民C3)

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写真はこちらより

前回の記事では、旧石器時代から縄文時代に至るまでの気候変動と陸地の変化を見てきました。今回から、いよいよ日本列島に移住した人類(私たち日本人の祖先)にスポットを当てます。

今回の記事で取り上げるのは、現在の日本人につながっている人々のうち、もっとも古い時代に日本にやってきたと言われる人々です。この人々は、Y染色体分析による分類で「C3」と呼ばれています。

現在の日本で、この「C3」の人々の分布(各地域の人口に占める割合)は、次のようになっています。



(崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』による)

C3系統の人々は、現在も日本の各地に存在することが分かります。ただし本州には極めて少なく、北海道(アイヌ)と九州に偏って存在している、という点が特徴的です。その理由、特にアイヌに最も多い理由については、あらためて別の記事で扱うことにして、今回は「C3」系統の人々の由来、そして日本にもたらした影響を探ります

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1.C3はいつ、どのような経路で日本に入り、どのように分布したのか?

C3の源流であるC系統は、出アフリカの第一グループであったことが分かっています。

中央アジアは寒冷化すると低緯度が乾燥化、中緯度が湿潤化するという気候的特徴を有しています。6万年前に脱アフリカしたC系統はインド北部に定着、4万年前の一時的な寒冷期に乾燥化したインド北部から湿潤化したパミール高原を経由してバイカル湖に到達、その後狩猟技術を獲得しながら動物を追いかけ、3万年前に北方適応して北方モンゴロイド(C3)となります。

3万年前から寒冷化が始まりますが、それに伴いC3は二派に分かれ、南下しパミール高原に戻った一波と、ユーラシア東部へ進んだ一派(その後、日本や北米に到達)があったと推定されます。

日本に入ってきたのは、最も寒冷化した2万5千年前から2万年前頃の間と思われ、日本での遺跡の状況から徐々にこの時期に大型動物(マンモスやヘラジカ)の南下に伴ってサハリンを経由し、陸続きだった北海道上部から入ってきたと考えられています。
※日本列島は約3万3千年前以降(約1万4千年前に宗谷海峡が出来るまで)大陸とつながっており、海流の影響が小さいため日本は寒冷化していました(前回記事参照)。

その後、C3は北海道を拠点としながらも、縄文時代の温暖化が始まるまでの間、地続きの津軽海峡を経由して日本各地にたどりつきます。おそらくは九州にも、一部到達していたことでしょう。

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日本での拡散の様子は、後期旧石器時代の遺跡分布からうかがい知ることが出来ます。この時代の遺跡は、地域によって分布の疎密こそあれ、北海道から九州、沖縄に至るまでほぼ全国に見られ、とくに2万から1万5千年前の細石刃石器群の遺跡は、約1800か所も発見されているのです。
(遺跡数と遺跡分布図は、堤隆『旧石器時代』より)

とは言え、C3流入時の日本の人口は約250人、1万5千年前でも約700人という推定(『共同体社会と人類婚姻史』)もあり、また多く見積もったとしても約3000人(小山修三説)と、人口は極めて少なかったようです。人口の割りに遺跡の数が多いのは、彼らが移動型生活を営んでいたからです。

2.C3系統の生産様式は、どのようなものだったのか?(狩猟か採集か?)

C系統の特徴は、狩猟、移動に特化した人々であるという点です。気候の変動に伴い大型動物は北へ、南へと居住域を移動しますが、C系統の移動距離の長さや移動的民族の特徴は、その狩猟民としての帰結として作られたものでしょう。

氷点下の地域でも住めるC系統の人々は、自らの肉体を変えてまで寒冷適応しています。彼らはさらにその適応のため、石器道具の開発や、弓矢の発明といった人類史の大きな発明を先行して作り出しました。それは彼らが脱インドをした時に、狩猟という生産様式で適応しようとした処から始まっています。

(1)C3を特徴付ける道具とは?

バイカル湖に定着した北方モンゴロイドは、旧石器時代としては最も優れた武器である細石刃石器を作り出し、その結果、狩猟能力≒生産力を上げていきます。

※細石刃石器とは、いわば“石器のハイテク”ともいえる物であり、小さなカミソリ状の石刃は大変鋭利で、骨や木に溝を彫り細石刃をはめ込んで槍先として使いました。
「日本人の源流を探して」参照)

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(堤隆『旧石器時代』より)

細石刃石器を擁した狩猟民のC3は、おそらくは人類最初の弓矢を、最寒冷期だった2万年前に発明している可能性があります。寒冷期における動物の激減、小型化という逆境が、さらなる狩猟生産力の向上に結びついたのです。

弓矢を得て、狩猟能力を格段に進化させたC3は、2万年前から温暖化し、北上した動物を追いかけ、まだ氷床で繋がっていたベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に移動して北米インディアンとなります。従って現在でもインディアンにはC3が多数存在しているのです。

なお、石器に続いて広まった道具である「土器」は、D2系統の人々が日本に持ち込んだものと考えられます。なぜなら、持ち運びには不便である土器は、移動型生活には不向きで、定住的生活を営んでいたと想定されるD2が生み出したと考える方が自然だからです。

日本最古の土器は、1万6千年前のものが発掘されており(青森県大平山本Ⅰ遺跡)、この頃からD2系統の人々が日本へ流入してきたと考えられます。(詳しくは、次回の記事で扱います。)

(2)C3文化は日本においてどのように消滅し、残ったか?

D2の流入(縄文文化への移行)に伴って、日本の旧石器文化は大きく変容しました。

約12,500年前頃から、日本列島で森林が発達し前回記事参照)、採集生活を営むD2系統の人々は、落葉広葉樹林帯を伝って、その北限である東北まで拡散します。一方、狩猟民族であるC3系統の人々は、大型動物を追って北海道まで北上します。そこでC3の旧石器文化は、(縄文文化を受け入れつつも)北方的要素を残すアイヌ民族に受け継がれたのです。

当時すでに海流が入り込み、北海道と東北を分断していた津軽海峡が、C3とD2系統の人々の境界線となったのでしょう。

※ここで、冒頭に紹介したC3の分布を振り返ると、九州における割合の高さが思い出されますが、これは本州にいたC3が追いやられた結果ではなく、縄文時代以降に朝鮮半島から流入してきた人々であろうと考えられます。

★今回の記事のまとめ

1.C3系統の人々は、2万5千年前から2万年前頃の寒冷期に、大型動物を追ってサハリンを南下し、北海道上部から日本にやって来て、その後、全国に拡散した。

2.狩猟、移住生活に特化した彼らは、旧石器時代としては最も優れた武器である細石刃石器を生み出した。

3.縄文時代(D2系統の流入)以降、彼らはしだいに北上、東北・北海道へ移動し、その文化はアイヌ民族に受け継がれた。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
次回は、縄文文化を中心に担ったと推定されるD2系統の人々について見ていきます。お楽しみに

主な参考文献
・山澤貴志『’10年末なんで屋劇場レポート2~モンゴロイドの誕生と北方への進出』 るいネット。
・崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』昭和堂、2008年。
・堤隆『旧石器時代』河出書房新社、2011年。


※冒頭の画像は、現代のエスキモー(米国アラスカ州)。こちらからお借りしました。

投稿者 yaga : 2011年10月18日 List  

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